一部の船員の間で渦巻く人間への悪感情という不穏因子が残るものの、船内の雰囲気が存外穏やかなのは、タイヨウの海賊団船長であるフィッシャー・タイガーが引き連れてきた人間の性格というか、性質が関係しているだろう。
海軍や海賊との交戦が続けば疲労が溜まり、けが人も出ててくる上に船内の空気が緊張状態では休まる隙がなく悪循環の無限ループに嵌ることは目に見えていて、その事態を回避できたことは大きかった。
明らかに違う体格や力の差を感じさせない彼の働きぶりは目を見張るものがあったし、周りに合わせるために他の何かを疎かにすることもなかったことは、今思えば異常なことだったようにも感じられる。
平穏に過ごせるのならばそれに越したことはないけれど、追手の止まない船の上でそのようなことを言っていられないのは事実であったし、彼のサポートに抜かりはなかった。
――それこそ、とても人間だとは思えないほどに。
「あ、ジンベエさん。いいところに!」
ちょっと手伝う時間ある? からりと笑ったステンシアは前方に見えたジンベエザメの魚人を呼び止めた。魚人の男は瞬時にこれからやらなくてはならないことを脳内に羅列する。
「大丈夫じゃ、何かあったか」
数秒の間、肯定を示したジンベエが問いかければ、ステンシアは上機嫌に来た道を折り返していく。――用件は何だ。と言いたい気持ちをぐっと堪え、ジンベエは歩く度にふわふわと揺れる黒髪を見失わないように後を追いかけた。
「……ステンシアくん」
ジンベエは目の前の状況に苦虫を噛み潰したような表情で男の名を呼んだ。
対するステンシアは、ジンベエの声が聞こえていないのか聞き流しているのか両手を背中に隠し、にこにこと笑顔を浮かべる。
何の前触れもなしに声を掛けられ、連れてこられたジンベエは笑顔を崩さないステンシアに更に瞠目し、頭を抱えた。
ダイニングテーブルに広げられていく菓子の数々は芸術的と表現してもいいように思えたし、普遍的で一度は目にしたことのあるようなものにも見える。
そこでふ、と、ジンベエの脳裏にいつか見た新聞の小さな記事が蘇った。
天才的芸術家現る
新聞の一面を埋めるわけでもない記事がジンベエの目に入ったのは、小さな記事の凡そ七割を占める写真と、でかでかと書かれたその見出しだろう。
天才的と称しておきながら製作者の姿が一切載っていなかったことも記憶に留まる理由の一つだった。何より、恐らくごく一部であろう煌びやかに盛り付けられた写真のトリミングされた部分に製作者が映っていたのかさえ謎が残る、と記者の捏造だったと噂されたほどの記事だ。人間が騒ぎ立てているだけだとして、ジンベエの記憶に薄っすらと残っていても何も不思議ではない。
「――後に世界政府は彼を人間国宝と定め、三年に一度、世界中の菓子職人を対象にした品評会制度を設けた」
世界政府をも動かしたその天才の名は――
ジンベエの視界に入らない男が微笑む。
欠片の興味もなかったためか霞んで思い出せない名前と容姿に――その製作者はメディアへの露出が一切なかったようにも思うが――ジンベエは記憶の引き出しを探った。
「ジンベエさん、よかったら食べてください」
記憶の中にトリップしそうな、もうあと一歩で思い出せそうなジンベエの思考を断ち切るようにステンシアが口を開く。
思考を妨げられたジンベエが迷惑そうにステンシアを見遣れば、意味ありげな微笑を湛える彼と目が合う。
テーブルに並べられた芸術品≠見れば、多少の美化があることは否めないが断片的に残る新聞の写真を思い返せば、そう。
「あれ≠ヘ、きみか」
書面の向こうの、交わることはおろか関わることさえないと思っていた人間は、思いの外近くにいたという、それだけのこと。立場で、肩書きで、全てが決まるわけではない。それは分かっているのだけれど、たった数日で人となりが分かるわけでもなかった。
彼の今までの言動が全て外面を整えた偽りだったと言うつもりはない反面、そうでなければいいという希望的観測が混じってしまう現実はどうしようもなくもどかしい。
人間国宝と呼ばれる彼は、多くの同胞たちを苦しめていた人間――天竜人と同じ場所で生活していたこともあるだろう。そのために元奴隷の船員と面識があると考えれば無理はない。
「きみは、何じゃ」
「? 私は私ですよ。ステンシア――人間国宝≠ニ、呼ばれることもあります」
何でもないように言ったステンシアにジンベエは視線を彷徨わせた。
後ろめたいことがあるわけでは、ない。
ただ、人間である彼を信じきれないだけで。頼っている部分も大いにあるけれど、人間には魚人族に――見た目の違うものに対する差別意識が染みついてしまっていることは事実なのである。
彼に、その意識は見られないけれど。
「……これは?」
「少々、作りすぎてしまいまして」
にこり。瞳を閉じて、彼はわらった。
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