「――ここがキッチンとダイニング、こっちが医療室。大浴場は向こうじゃ」

 ざっくりと案内を終えたところで抱え上げていたステンシアを下ろし、ジンベエは見上げる視線から顔を逸らす。

「何か分らんことがあれば、タイガーさんか話しかけやすい船員に聞けばええわ」
「ジンベエさんでも?」
「……お前さんの好きにせい」

 ぶっきらぼうに答え、甲板に戻るらしい様子の男に小さく笑ったステンシアは靴音を鳴らしその背中を追いかけた。



「次の島までどれくらいかかるんだっけ?」

 甲板へ出た人間の男は、前を歩いていたジンベエに向かって声を掛ける。恐らくあまり航海経験もないだろう男へ――と言ってもジンベエも航海経験はあまりないのだが――何もなければ一、二週間程度で着くだろうと答え、ジンベエは思い思いの場所に散らばる船員へ目を遣った。

 船内にいるものと甲板に出ているものの数は普段と変わりない。その割に船内で擦れ違ったものの数は普段と比べて圧倒的に少ないことを考えれば、自然と彼が避けられているのだろうことが窺える。
 幾らフィッシャー・タイガーが連れてきたとはいえ、彼が人間であることに変わりはないのだから仕方ない。

 とは言うものの、タイガーの意思であるから暫く共に過ごすことは確定しているのだ。急くべきではないけれど、いつまでもそれではどこかで弊害が出てきてしまうことは安易に考えられる。――頭の固い船員ばかりではないけれど。

 ジンベエは密かにため息を零した。

「二週間か。普通の船とあんまり変わらないんだ」
「何じゃ、不満か」
「いや? 魚人さんたちも、ゆっくり航海するんだなって。泳いだ方が早そうなのに」

 からりと笑い、ステンシアは水色の瞳に広大な海を映す。風が悪戯に黒髪を揺らすことを咎めるように片手で押さえつけ、男はデッキの手すりへ歩を進めた。

 流石に落ちることはないだろうし、堂々と落とす輩もいないだろうと目を離した数秒後、僅かな驚きと焦りの混じった声から程なくして聞こえた水音にジンベエは反射的に視線を戻す。ジンベエが最後、人間の姿を見た場所には、至極冷ややかな目で海を見下ろすノコギリザメの魚人ただ一人。

 慌てて海へ飛び込んだハチに舌打ちした男が何をしたのか瞬時に悟り、ジンベエはアーロンを睨みつけた。

「アーロン貴様――」
「わはは! 大胆!!」

 ハチに抱えられ、能天気に声を放った人間にジンベエはがくりと項垂れる。――心配して損をしたと言うつもりはないが、水中では地上の何倍も身体能力が飛躍する魚人に落とされたということの危機感が恐ろしく足りないのではないだろうか。そもそもこの人間は悪意に気付いていないことすら考えられるわけで、悪意に気がつかないまま取り殺されてしまう可能性だって考えられる。

 飛沫を立てて甲板に飛び上がったハチが上腕に抱えた男が存外楽しそうなことにアーロンは顔を顰めた。

「いいね、海の中は。――きらきらしてて、静かで綺麗」

 私は、水中で息は出来ないけれど。ハチの腕から降ろされたステンシアは海水を吸った上着を脱ぎ、海へ腕を伸ばしてぎゅっと絞る。一枚の布のようにも見えた上着は一枚羽織っている形であったが、何の抵抗もなく晒された白く細い腕にジンベエは人知れず息を呑んだ。

 不用意に触れば折ってしまいそうであるし、船員と同じ感覚で接してしまっては吹き飛ばしかねないと肝が冷えたからである。人間の身体の強度は魚人のそれと比べて脆く弱いものであるから、今一度彼への対応を考え直さなければならない。
 ジンベエが内心ひやりとしている中、ステンシアを海へ落とした張本人――アーロンは口を開いた。

「その静かでキレイ≠ネ中で呼吸も出来ねえ下等生物はいっそ哀れだなァ? 海はおれたちの世界だ。お前ら人間が追いやったこの海で! 陸でも力で負けねえおれたち以上に強い種族はいねえ!!」
「……そうだね。世界中に広がる海で生きられないのは、きみが言うように哀れかも知れないし、どこにでも行ける海で生きていけるあなたたちは、強いと思うよ」

 にこり。一切怒ったような感情を感じさせない穏やかな笑顔で、いつ何を仕出かすか分からない男を真っ直ぐに見据え、彼は物怖じすることなく言い切った。

 全く予想だにしない反応に一瞬たじろいだアーロンが「胸糞わりい」と舌打ちしてその場を離れたが、それを不思議に思ったらしいステンシアはきょとんと首を傾げる。

「……私、何かおかしいこと言いましたか?」
「ニュ〜……お前、ちょっと変わってるな」
「え? ええ?」
「…………ハチ。それはわしらの知っとる人間が偏っとるのもあるじゃろう」

 いつの間にか持ってきていたタオルでステンシアを包んだジンベエがそう言うと、少々納得のいかない顔をしながらハチもそうかも知れないと頷いた。
 思うところはあるものの、世界は広く、人間は多い。まだまだ知らない土地や、感情や、人々も多いと思えば、ジンベエの見解は充分に頷けるものだった。


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