黒く柔らかな髪の毛が宙を舞ったことが見つけ出せたきっかけだった。

 ああ、そうだ。この姿を探していたのだ。赤い身体をした魚人は、腰丈の黒髪を緩く髪の毛で一つに纏めた人間を抱きしめる。

「やっと、やっと見つけた。ステンシア、おれを覚えているか」
「……タイガー?」

 白い指先がタイの魚人――フィッシャー・タイガーの腕に触れ、水色の瞳がその元を辿る。ぶつかった視線に男は微笑み、確かめるように人間の名を呼んだ。彼の記憶の中に自分がいなくたって構いはしなかったが、彼が、ステンシアがおれを忘れているはずがない。その一心で華奢な人間を両腕に捉え、問いかけた。

 もし彼が忘れていれば。もし人違いだったのなら。海軍を呼ばれても仕方のない軽率な行動だったと僅かに反省したが、彼が自分を忘れているはずも、自分が彼を見間違うことはずもないと思えば、戸惑う理由が見当たらなかったのである。

 事実、ステンシアは覚えていたし、怪我してない? 今、楽しい? 無理してない? などとタイガーを心配し、生きていて良かったとまで口にした。

「ステンシア、一緒に来ないか」

 抱きしめた腕をそのままに、タイガーはステンシアへ訊ねる。彼はきっとこの誘いを断るけれど。人攫いのような真似はしたくないけれど。

「私は、そこまでタイガーに迷惑を掛けられない」
「ステンシアに紹介したい仲間がいるんだ」
「……タイガー?」

 話、聞いてる? その台詞が紡がれるより先にタイガーが動き、ステンシアの唇からは小さな悲鳴が零れた。

「たっ、タイガー! 待って!」

 ひょいと肩に抱え上げられた人間が必死に抵抗するものの、意思を固めた魚人を相手には意味がないと諦める。

 そんなに会わせたいのか。彼は、仲間に。

 幾ら辿り着いた先が天竜人の元だとはいえ、海底に暮らす彼らを嫌ったのは他でもない人間であり、彼らが嫌悪するのも人間であることを、ステンシアは知っていた。――知っていた、では語弊があるだろうか。
 罪も人も憎まず、全てを愛して受け入れる無責任な博愛主義者であるステンシアという男が、悪感情をどこまで理解できているかは定かではない。けれど、彼は、島民と魚人たちの反応、態度で互いに距離を置いている≠アとは分かっていた。

「ねえタイガー。私はやっぱり会わない方が良いと思うんだ」
「……どうしてそう思う」
「私は、魚人でも人魚でもない。思い出したくもない記憶に人間がいるのなら――」
「だったら尚更だ。おれたちの知っている人間が、本当にほんのひと握りであることを教えてやってほしい」

 おれが、今、思い止まれているように。立ち止まり、そう言った魚人の男は肩から人間を下ろし、柔らかな黒髪に触れる。

 白い肌を際立たせる綺麗でふわふわとした黒髪は、地獄のような日々の中でも強く印象に残っていた。笑顔も、細い指先も、立ち姿でさえ、タイガーの脳裏に焼き付いていたけれど、焦がれたものはそのコントラストだったように思う。

「おれと、来てくれないか」

 返事は、分かり切っていた。

 彼はいつだって他人の期待に応えようとする男で、危ういほど優しくて。

「何の役にも立たない私でいいのなら」

 ――ああ、本当に。この男は、きれいだ。

 冒険家、フィッシャー・タイガーは笑い、逃亡中の人間国宝、ステンシアを連れ出した。

「――だけどタイガー、一つだけ。約束してほしいことがあるんだ」

 男はフィッシャー・タイガーにとって恩人だった。

 男は元奴隷たちにとっても恩人だった。

 タイガーは男の言葉を苦々しく呑み込み受け入れた。




「それ、止めましょう。折角近くにいるんだから、名前で」

 ね、ジンベエさん。呼びかけ、目を細めて微笑んだ男にジンベエは狼狽える。

 彼は魚人を恐れることなく、名前で呼び合う対等≠望んでいる一握りの人間だった。

 彼は、何なのだろう。ジンベエの頭の中にはいくつもの疑問符が並んでいく。

 目の前の、フィッシャー・タイガーの連れて来た男は、人間であるはずだけれど。如何にも特殊な分類に振り分けられるだろう得体の知れないこの男は、本当に人間なのだろうか。

「――……ステンシアくん」

 意を決して名を呼び、ステンシアの視線を追ったジンベエは思わず顔を顰めた。ぎろりと睨みつけるアーロンを前にして、自然に笑うこの男の正体は何なのだろう。

 ジンベエは言いがかりをつけ殴りかかろうとしたアーロンの腕を叩き落とし、アーロンが危害を加えぬようにとステンシアを背中へ隠した。

「クソが! 頭がいかれちまったのかよ!!」

 怒鳴るアーロンを殴りつけ、ジンベエは静かに口を閉ざす。睨み合う二人に船内通路はびりびりと不穏な空気を纏い凍り付いた。

 タイヨウの海賊団の中でも腕っぷしの強い二人が睨み合いを続ける中、まるで独り言のようにステンシアが言葉を零す。

「……人間と魚人って、そんなに遠い関係ですか?」
「テメエ等人間がおれたちを嫌って遠ざけたんだろうが! 遠い? 当たり前だ。水中で息ができなければ、水圧にも耐えられねえ下等生物が! おれたちと同じ土俵に立てるわけがねえ!! 近づこうとすること自体が間違ってんだよ!!!」

 すかさずアーロンは舟板を踏み抜かんばかりに吐き散らした。強い威圧にびくりと肩を揺らしたステンシアは僅かに首を傾げる。

 その仕草にジンベエははたと思案した。彼は人間と魚人の、人間の差別意識を知らないのかも知れない。人間である以上、彼ももちろん魚人への差別意識を持っていてもおかしくない分類に入るけれど、例え上辺だけのものだったとして恩人と呼ばれるステンシアには存在しない意識である可能性もある。
 残念ながら希少と言える人間のこの意識を、みすみす掻き消すわけにはいかない。ジンベエはステンシアへ何を言うべきか思案し、先ずはアーロンの台詞を切り捨てるべきと判断した。

「真に受けんでいい。こういう奴はどこにでもおる」

 一緒に生きたいと思うことは間違っていない。けれど、それを望まないものも絶対数いるわけで、魚人島の住民も、タイヨウの海賊団に所属するものの中にも諦めてしまっている魚人たちがいることは事実である。

 魚人側が歩み寄ろうとも、人間側が変わらないのなら、現実は何も進歩しない。そもそもの話、どれだけ地上に憧れを持っていたとして、真相ではやはり歩み寄ろうとさえ思っていないかも知れない。

 ジンベエは俯いた人間を抱え上げ、船内案内に戻るためにその場を後にした。


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