「ありのままのあなたといたい。」
それは彼女の感情であり、寝間着姿で朝食を共にした彼に言った台詞である。
その昨晩、彼の作ったオムライスを食べながら彼女は言ったのだ。
野菜を貰ったからシチューを作ろう≠ニ。
落としてしまった皿の破片を拾い上げ、きゅうと締まった胸に手を当てた。無念だっただろう。彼女は、彼女は。
視界は未だにぼやけたままで、ぽたり、ぽたりと床を濡らしていくことさえ心苦しくて仕方ない。
「どうした」
おれに影を落とした家主の困惑した声までもが虚しく感じてしまうのは何故だろうと考えて、頬を包む大きな掌に感じる妙な懐かしさが余計に涙を作り出しているような気がした。
──今までおれではない誰かを通して視ていた世界が優しかったからだろうか。
「サカズキさん、おれは、誰ですか」
「何を言うちょる、お前は」
「違います、違うんです。これはおれじゃない。きっと、きっと彼女が幸せにならないといけなかった」
彼女≠ェ幸せでなかったはずはないけれど、何年前の記憶なのかも分からないけれど、他人の記憶と自分の記憶が混濁して自分が分からなくなるほどに強い想いは、伝えなければならないものなのだと思う。
サカズキさんに感謝はしている。それこそ、言葉にできないくらい。
けれど、何度思い返してみても思い出せない過去の記憶は彼女≠ェ邪魔するからだったようにも思えるし、今まで付き合ってきたもう一つの人格であり、記憶であることも確かなのだ。
鏡を見て違和感を覚えたのはいつだったか。
海が堪らなく怖いのは、正義の砦が、愛おしいのは。
「──マナ!」
頭で理解した頃には駆け出していた。
懐かしい記憶と、見知った街並み。ここに、彼がいたのなら。
正義のコートを背負った見覚えのあるその背中に再び涙が零れ落ちた。将校だけが着用を許可された海軍コートは見覚えがないけれど、それは彼が昇格したという事実の証明である。
「モモンガさん!」
振り返った彼が目を見開いた。
「君は、サカズキさんの」
「あなたに……! 伝えられていない、ことが、沢山あります!」
息を整えて、ひりりと痛む足を見れば、どうやら靴を履き忘れていたらしかった。
「一体何の話だ」と困惑したモモンガさんもおれが靴を履いていないことに気がついたようで、慌てて駆け寄って目線を合わせるように膝をつく。
目元を拭った手はやっぱり優しくて、だけどこの懐かしさはおれのものではないのだ。
「あなたのやさしい手はずるい」
やさしい手を払い、数歩下がる。
「すきでした。あなたの作るパンケーキが、あなたの作るさんまの塩焼きが」
伝えなければならない。
彼に、彼女が伝えられなかったことを。
「あなたのやさしさも、あなたのファッションセンスも、あなたを構成する全てが──」
ふわりと、笑う彼女の残像が蘇る。
栗色の頭髪も、亜麻色の瞳も、写真の中で止まった彼女の面影は彼にはないというのに。
海軍基地内でも評判の甘味屋で幸せそうにパンケーキを食べた彼女は僅かに首を傾げ、それでも美味しいと言っていた。
彼女はかわいい。何をしていても、可愛かったのだ。
「──だいすき、でした。」
ぼろぼろと泣いた彼は、彼女は。
『わたし、あなたといられてしあわせよ』
ほろりと、暖かい雫が頬を伝った。
嗚呼。
「──愛しているよ、まな」
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