「海が怖いんです。理由はよく分からないけど、無性に」

 目を閉じて、海を思い出して、苦しくなる。
 海は青いはずなのに、視界に広がるのは赤ばかりだ。大した痛みは感じないけれど、ぬるりとした嫌な感触は明確にある。

 ──ああ、と思い出す。
 これは昔毎日のように見た、自分ではない自分が死ぬ夢だ。
 鮮明な恐怖を持ったこれが誰≠フものなのかは分からない。
 石床を叩く自分の足音が、上手く息を吸えない窒息感が、一瞬の痛みの後に全てなくなるのだ。
「ごめんなさい」と最期に残した台詞は誰にも拾われはしなかった。その人の無念を知っているのは、最期の台詞を聞いているのはおれしかいなくて、けれどそれを一体誰に伝えればいいのか分からない。
 ふわりと揺れる栗色の頭髪は恐らく女性のものだから、詫びは、きっと男に人へ向けたものだろう。
 何故なら彼女≠ヘ一週間先に待つ恋人か、旦那様かの誕生日プレゼントを買いに街に出ていたからだ。
 結局、何を買ったのかは覚えていない。
 けれどプレゼントを決めるまでに分厚い灰色の雲が太陽を覆い、ぽつりぽつりと涙を零していたことははっきりと記憶している。「ああ、雨が降り始めた」と広げる傘は、想い人と揃いで買ったお気に入りのものだった。

 レインブーツが雨水を撥ねる。

 瞬く間に雨脚の強くなった空模様に近くの喫茶店に入り、すんなりと通された席について小さくため息。じめじめとした空気に少しだけ落ち込んだ気分が雨と一緒に流れ出てくれないかな、なんて考えて、おいしそうな甘い香りにメニュー表を開いた。
 バニラアイスとワッフルの盛り合わせ、みずみずしいメロンがおいしそうなパフェ、林檎ジャムで味わうパンケーキとどれも食べたくなってしまうスイーツが並んでいる。
 今度───さんと一緒に食べに来たいな、なんて考えて、季節を度外視したパンケーキと紅茶を注文した。
 ふわふわとした生地をナイフで切って林檎のジャムと口に運べば、口腔にふわりと広がるほどよい甘味が幸福感を運ぶ。
 心地良い紅茶の香りも味わいながら、一口、また一口と口に運び、はたと外を見れば晴れやかに回復した気分のように太陽が顔を覗かせていた。
 そこで終われば平穏な夢であるのに、その穏やかな光景は突如、一変する。
 一歩を踏み出すことも億劫なほどに疲れ切った両足をそれでも必死に踏み出して、上手く吸えない息を吸い、真白なワンピースの裾が泥に汚れるのにも、いつの間にかお気に入りの傘を手放していたことにも気がつかなかった。
 ばさりと髪を掠めた刃物に涙が零れ落ちる。
 なんで。
 ここは安全な・・・土地であるはずなのに。
 大きく息を吸い込み、助けを求めようとして飛び起きた。
 ぐっしょりと汗をかいた身体は怠く、隣で寝ていたサカズキさんの姿はどこにもない。
 これが夢と、フィクションであると一蹴できないのは、実体験に思えるほどに鮮明だからだろうか。
 我ながらどこからが夢でどこからが現実なのかは分からないけれど、ただ一つ確かなことは、おれが今生きていることだ。
 ひどく疲れてしまっているが、障子の向こうから差し込む光は朝だと言っている。
 サカズキさんはどこにいるのだろうか。取り敢えず、朝食を作らなければならない。


 全室和室のサカズキ邸に於いて小さな違和感を作り出すデジタル時計は、昔、サカズキさんが上官からもらったものだと言っていた。
 それが示す時間は午前六時。いつも・・・の起床時間だ。
 朝ご飯は何にしようか。布団を畳みながら今日の献立を考えて小さな違和感。
 果たして同じ家に住んでいた男はいつもこの時間に起きていただろうか。

「……サカズキさんは、早起きだから」

 そうだ。サカズキさんはこの時間にはもう起きているし、おれがあの人より早く起きれたことなんて今まで一度もない。

「味噌汁と、おひたしと出汁巻き玉子にしよう」

 味噌汁の具材はあの人もよく作ってくれる豆腐とワカメでいいだろう。葱も必要か。おいしいし。
 障子戸を空けて日差しを遮る大きな身体を見上げた。ばちりと合った視線は僅かながら動揺を宿していて、なんだか少しだけ申し訳ない。

「美味そうな秋刀魚があったけ、買うてきた」
「あ、ああ……はい。塩焼きでいいですか」

「ああ」と肯定が返って来たのを確認して朝食のメニュー変更だ。秋刀魚の塩焼きと味噌汁にしよう。


 こんなことを自慢げに言うのもどうかと思うが、おれの得意料理は秋刀魚の塩焼きだ。
 冷蔵庫の中を確認してみれば、丁度良く大根とポン酢があるのだから流石というかなんというか。
 おいしそうで買ってきたと言うのも分かる新鮮な秋刀魚をまな板に置き、まずは鱗を取る。
 秋刀魚に鱗? と言われることも多々あるが、秋刀魚にだって鱗はある。少ししかないとはいえ食感がざらざらする鱗は包丁でこすり取っていく。
 グリルを温めて、流水で軽く洗った秋刀魚の水分をキッチンペーパーでしっかり拭き取る。塩焼きのキモである塩はニ十センチ程度上から万遍なく振りかける。量は少しかけすぎなくらいがベストだ。何故ならば、新鮮な秋刀魚は脂が多く、しっかり塩を振ることで焼いたときに皮がパリパリに仕上がるから。振りかけるだけでなく秋刀魚に馴染ませるように手で軽く塗り込むのも美味しく焼くためのコツだ。
 裏面もしっかり塩を振り、手で馴染ませたら予め温めておいたグリルに丸ごと乗せる。切れ目を入れたり半分に切るのは、切れ目から旨味が逃げ出してしまうから駄目だ。
 グリルの火加減は中火でじっくり。
 秋刀魚の表面に万遍なく焦げ目がついたら焼き上がりだ。新鮮な秋刀魚はしっかり焼いた方がうまみが増しておいしいのだ。
 薬味は定番の大根おろし。そして最初にポン酢の所在を確認したのは、しっかり塩を振った秋刀魚の塩焼きには、醤油ではなくポン酢でさっぱり食べるのがおすすめだからだ。
 土鍋を確認したら見事に炊けた純白のご飯と面会してよだれが垂れそうになったけれど、ふっくらもっちり香りよく炊き上がった土鍋のご飯を前にして食欲がそそられないはずがないだろう。
 味噌汁は秋刀魚の塩焼きを作る前に作り終えているし、昨日の夜作った大根とほうれん草のおひたしを座卓に並べれば準備完了、あとはサカズキさんを呼んで朝食だ。


 いただきます。と両手を合わせて数分、静かな食事はサカズキさんが無口であることも関係しているだろう。
 綺麗に平らげられた秋刀魚の塩焼きの姿は見慣れたものだ。昔はうまく焼けなくて焼いてくれと頼んでいたような気がする。

「……綺麗に食べよるのォ」
「魚を綺麗に食べれる人が好きなんだって、サカズキさんも綺麗じゃないですか!」

 考えなしにさらりと出てきたそれを言った人は誰だったのだろうか。
 曖昧に笑ったサカズキさんはおれの頭を数回撫でて食器を片付けに行ってしまった。何かまずいことを言っただろうか。
 食べ終わった自分の皿を持ち上げ、背中を追いかけるように台所へ向かえば、ついと差し出された手に動揺した。

「おれがやりますよ! サカズキさん」
「休日くらいわしがやるけ休んどったらええわ」

 浚うように自分の手から離れた食器を眺め「折角休みなんだからゆっくりしていればいいのに」という言葉はぐっと飲み込む。
 掃除しようにも日中暇なおれがほぼ毎日のように掃除しているのだから、取り上げて汚れている場所などないだろうし、物の少ないこの家の中で片付けるものだってないのではないだろうか。
 サカズキさんが休みの日に趣味としてやっている盆栽は、おれの知識にある盆栽とかけ離れ、真っ直ぐ天に向かって揃えられている。
 それを見たボルサリーノさんは吹き出していたけれど、それが一般的に間違っていると教えてくれる人はいなかったのだろうか。

「……ああ、そうだサカズキさん。パンケーキ食べに行きませんか?」

 ぴたりと止まった流水音ににこりと笑えば、短い逡巡の後、小さく頷いた。


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