「──大好きでした。」
ぽつりと少年の口から零れ落ちた台詞にサカズキは口を閉ざす。
詳細不明の彼を自らの家に住まわすことになったのは、マリンフォードの港に打ち上げられていた一般人を拾い上げたからだった。
勿論サカズキはどこの誰かも分からない人間を家に上がらせる男ではない。詳細不明ともなれば尚更だ。
けれどその詳細不明の彼は現在サカズキの家に住んでいて、見た目から換算した年齢よりも大人びた少年だった。
少年が笑う。
「誰かに、伝えたかったはずの言葉なんですけど、おれ、ではないような気がして」
「ほうか。……そりゃあ、思い出せるといいのう」
「あ、そうだ。一つ、思い出したことがあります。新しくできた人気のスイーツ屋さんの近くにある、昔ながらの小さな商店だけで買える飲み物が面白いんですよ」
記憶を失っている彼が一つまた一つと口にする記憶はどれもが二、三十年は昔のもので、今回思い出したというその記憶も中々に古いものだった。
彼の言う新しくできた人気のスイーツ屋≠ニいうのは、数十年前、海軍基地でも流行った甘味屋で、残念ながら今は既にないが、異様なものを売る小さな商店は今でも健在の店である。
というのも、今も昔も何かと面白い面白いと言ってサボり魔の同業者が足繁く通っているからこその情報だった。
「行きたいか?」と訊ねれば、彼はぶんぶんと首を横に振る。
行きたいという意思はないらしい。
「おれね、これ以上サカズキさんの手間になること、したくないです」
「気にせんでええと言うちょるじゃろうが」
行きたいという意思がないのではなく、それに自分を突き合わせるのが申し訳ないと言った彼にそう言えば、困ったように表情を曇らせ目を泳がせた。
記憶が戻るきっかけになるのなら、それに越したことはない。
「……近くに、海があるじゃないですか」
ああ、と、そういえばこの少年は海が嫌いだったことを思い出し、体の良い言い訳に使おうとしたらしいことに気がついた。
港に打ち上げられていたことを思えば海が嫌い≠ニいうのも頷ける気がするが、それに至った理由は恐らく海の屑共のせいなのだから、やはりあれらは完全殲滅するべき存在である。
「わしがおっても、怖いか」
「いや、えっと……はい。できれば、見たくないです」
「ほうか」
灰色の瞳を伏せた少年に、無理強いするべきではないとサカズキは冷えた湯呑を持ち上げた。
少年を拾ったのは確かにマリンフォードの港だ。けれど彼の故郷はマリンフォードではなく、ならばどこから来たと訊ねれば、虚ろな瞳で「分からない」と答え、名前すら分からないと宣った。
そんな彼は海軍最高戦力の一角を担う大将として既に有名だったサカズキを前にして、怯えた様子なく「あなたは誰ですか」と訊ねられる図太さも兼ね備えていた。
これは些か面倒だと少年を海軍基地に連れ帰ったサカズキは、同様の台詞を海軍元帥に向かって吐いた少年をまじまじと見つめてしまう。
服装からして、そこそこ金銭に余裕のあるだろう少年が海軍≠ニいう組織を知らないはずはない。
ゆっくりとサカズキを見上げた少年が言った。
「ここは、どこですか」
「ここはマリンフォードだ」と頭を抱えた海軍元帥の代わりに口を開いたのは、偶然同席していた自由奔放、お気楽な中将だった。
そしてその中将は「記憶が戻るまでサカズキの家に置いといてやれ」などと無責任に言う。
灰色の瞳を瞬かせ、サカズキを見上げた少年は「迷惑をかけるわけにはいかない」と渋ったが、その発言が逆に決定打となりサカズキの家へ居候することになったのだ。
「あの、ごめんなさい」
あれよあれよという間に決まったことへ謝罪した少年は所在なさげに視線を彷徨わせた。
「わしのところにおるんが嫌じゃのうなら好きにすりゃあええわ」
「……なるべく、はやく思い出せるように、努力、します」
急におどおどし始めた少年に舌打ちしたサカズキははっとして、しかしこちらを気にしていない彼の視線を追いかけた。
じい、と大きな瞳で日めくり式の壁掛けカレンダーを見つめ、こてりと首を傾げる。
ぱちりぱちりと瞬きして握った手の指先を一本、また一本と伸ばしていく姿は明らかに何かを数えていて、ついに開かれた両の手の平は再び閉じられていく。
「どうした」と、聞くには呆けた顔をして、再度首を傾げた少年はサカズキを見上げた。
「……もしかしてあなたが、あのサカズキさん≠ナすか?」
──あの、とは、どのことだと思わなくもないサカズキだったが、やはり、記憶のどこかしらに海軍の記憶はあるらしいことに僅かばかり安堵した。
彼の記憶に残る自分が良くないモノだったのなら、その時は堂々と引き取り先を変えられる。
「それじゃあ、あの人はセンゴク大将≠ナすか?」
大将≠ニいう呼び名にまじまじと少年を見下ろしたサカズキは次いで紡がれた「でもこれは、おれの記憶ではないような気がします」という台詞に瞠目した。
このガキは何を言っているのだ。というのがサカズキの本音だったのだが、彼がふざけて言ったわけではないことは数ヶ月の内に証明された。
──例えば、花屋の店主の名前。
その店主が四十二という若さで亡くなったのは二十年ほど前のことだ。
毎朝赤い薔薇を買い求めているだけに、この情報に誤植はほぼないと言っても過言ではない。
話題の洋服屋の話。
奇抜なファッションスタイルで一躍有名になった洋服屋はめっきり客足が減り、うっすらとインパクトの強い洋服の記憶が申し訳程度に残っている程度のものだ。
興味もない奇天烈な洋服屋が記憶の片隅に残っているのは、部下であるとある男が普段着としていたからである。
明らかにマリンフォードに住んでいたことを思わせる彼は、それでもこの地を知らないと言う。
「だってね、サカズキさん。おれ前から海って苦手なんですよ」
だから、ここに来たのは生まれて初めてなのだと、少年は口にした。
マリンフォードの下らない話は次々に出てくるというのに、少年の名前は未だに不明である。
「そうだ、サカズキさん。おれのこと、マナって呼んでください」
「マナ……?」
どこかで聞いたことのあるような響きにサカズキは思わず聞き返した。
「そう、マナ。何か昔、そう呼ばれていたような気がするんです」
嬉しそうに灰色の瞳を細めて微笑んだ少年に「それは一体どちらの記憶なのだ」とは、流石のサカズキでも言うことができなかった。
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