「別に、あの人と生きる未来を望んでいたわけじゃあないんだ」

 ぽつりと呟いた青年はじりじりと燃えてなくなっていくビブルカードを呆然と眺めていた。
 空島から落ちてきた青年を拾い、住む家を与えた男は未来に身を投じたのだ。その決断にものを言うつもりはない。

「あなたが後悔していないのなら、何だっていいんだ」



 移動する島、ゾウへと落下した空島からの来訪者を受け止めたペドロの真意は不審者の排除だった。けれど、ひどく怪我を負い、無抵抗に落下してくる明らかに訳アリなその人を放っておくこともできなかった。
 万一、彼が敵であったとしても負けることはないだろう。そんな過信は、確かにあったのだ。
 ぱちりぱちりと長い睫毛を瞬かせた彼はゆっくりと首を傾げ、自分の両手を確認して再度首を傾げる。

「目が醒めたか」

 澄み切った空色の瞳がペドロを映し、びくりと肩を揺らした。壁に張り付いた青年は喋る動物≠まじまじと見つめる。恐る恐る近付き、伸ばされた白い指先を掴んだペドロはじいと青年を見下ろした。

「何が目的だ」
「……あなたは何?」
「質問に答えろ」
「目的以前に、ボクはどうして生きているんですか?」

 僅かに訝しんだ表情を浮かべた青年の台詞にジャガーのミンク族がため息を吐く。まるで生きていることが誤算であるかのような口振りだ。

「ここに落ちてくる影が目に入ったから受け止めた。それだけだ。どこから来た」
「それじゃあボクを助けてくれたのはあなたということですね。ありがとうございます。青海人はみんなあなたみたいに不思議な顔立ちをしてらっしゃるんですか?」
「青海人……なるほど、空島から落ちてきたのか。残念だがここ……青海って言った方が分かるか? は、ゆガラのような見た目の方が多い」
「そうなんですか! ボク初めて来たんです」

 ニコニコと笑顔を浮かべる男にすっかり毒気を抜かれてしまったペドロは苦笑した。

「何があった?」
「うーん、簡単に言えば追放≠ナすね、国家からの」
「犯罪者か」

 青年の言葉に身構えたペドロが間髪入れずに訊ねれば、コンマ数秒ほど考える素振りをして「彼から見れば、犯罪者だったのでしょうね」とあまりにも適当な答えが返された。次いで「何者だ」と警戒心丸出しで問う。

「一般人ですよ、ボクは。何の力もありません」

 それにもあっけらかんと答えた青年の眼に嘘は見られない。
 先に折れたのは、ペドロの方だった。

「──おれはペドロだ。ゆガラは?」
「ルマンド、と言います」

 空色の瞳を眩しそうに細め「ペドロさん」と反芻した青年が毛皮に覆われた手を撫でる。
 気持ちが悪いと叩き落さなかったのは、彼の言い分通り、彼に戦闘能力があるとは思えなかったからだ。だからこそ今後の処遇について痛む胃と頭がある。



 まるで、拍子抜けするほど簡単に。
 思わず動揺するほど単純に。

 元よりくじらの森の守護神夜の王<lコマムシの旦那が、危害を加える気もなく会話のできる人間を毛嫌いする理由はなかったのだ。
 そうともなれば問題なのは彼の住居であり、生活時間帯だろうか。ネコマムシ預かりとなれば自然と夜型の生活になるものだが、さあ今すぐ実行しろと言い募ったとて残念ながら無理があるのは分かり切っている。けれど、モコモ公国昼の王<Cヌアラシ公爵預かりとしてもやはり無理は生じてしまう。
 そもそもネコマムシが容認したとしてイヌアラシが同じ決断をするとは限らない。なんて身動きのとり辛い、とペドロが悪態をつきかけたところで青年が小さく笑った。

「何がおかしい」
「いえね、命を助けてもらった上で我が儘なんて言いませんよ」
「ゆガラの好きにすりゃあええきに! いっそペドロと住むゆうんはどうじゃ」
「旦那! それはルマンドも困るでしょう」
「ペドロさんさえ良ければボクは構いませんよ?」

 まったくお前は、とため息を吐いたペドロを気にする様子のないネコマムシは上機嫌に喉を鳴らす。

 あっけらかんとしたルマンドに折れるのはいつもペドロの方だった。

 ミンク族という青海人の中に紛れ込んで生活することに抵抗はない。むしろ快く迎え入れてくれた彼らには感謝していて、彼らのような戦闘能力がないことを悔やんだりもした。けれどその度彼らは、恩人であるペドロは「焦らなくていい」と僅かに口角を上げる。

 お互いにそれが苦ではなくなってきた頃合いに確信した感情をお互いに口に出すことはなく、事件が起きた。

 強い彼らの力があってなお、彼らは無力だった。
 突如侵略してきた海賊がばら撒いた毒ガス兵器に一人、また一人と膝をつき、抵抗のできない彼らに同じ問いと暴力を振りかざす海賊を前に街は崩壊。
 ルマンドにクジラの森で待っていろとモコモ公国の惨事を直視させまいとしたペドロだが、ルマンドの故郷でマントラ≠ニ呼ばれる見聞色の覇気を体得していたのは誤算だっただろう。
 惨劇の全てを聞いていたルマンドはそれでも何も知らない振りをして、軽傷者の手当てをしていた。何もできないまま、悲鳴を上げるミンク族の声を聞いてなお、何があったのかと、聞けるはずもない。

 紛れもない救い≠セったのだ。

 麦わらの一味がゾウへと辿り着いたタイミングは。彼らの中に優秀な医者がいたことは。

 喪ってはならない二人の王も、多くのミンク族の命をも救ってみせた、強く優しい海賊に出会えたことは奇跡≠セったのだ。
 人知れず現れた海賊に連れて行かれた一人の恩人も、遅れて上陸した彼らの船長を含める仲間たちと、更に遅れて上陸したサムライたちの到来は、間違いなく歯車を動かしていく。
 彼らに付いて行くというペドロの意志に口を出す理由はなく、彼に生きて帰る意思がないことも分かっていた。

 それでも。それでも、きっと。

「(それでもボクは、あなたと生きていきたかったんだ)」

 ぼろぼろと目から零れ落ちる未練がましい雨が止まない。いっそ、押し込んだ感情がこの涙の洪水で全部流れ出てしまえばいいのにと、何もなくなった手のひらを握り締める。

「あなたの、願いが叶うなら、何だっていいんだ」

 ──彼の命をもってして、世界の夜明けは、訪れますか。


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