ふらりと立ち寄った島で見かけた見覚えのある人影にオールハント・グラントは瞠目した。当時目印にしていた深緑の長髪はバッサリと短く切り揃えられ、杖を付く男の顔には柔和な笑顔が浮かぶ。体格は以前と変わらずザッパとボナムの間あたりで、ああ、市民の中にいると彼は存外長身なのだな、とグラントは暫くその男を眺めていた。

 彼が海軍を辞めたのは、グラントの敬愛する青雉――クザンが海軍を離れるより前だったけれど、クザンの補佐官として胃を痛めつつ周りから慕われる中将だった。

 杖を支えに足を引きずる元中将――ルマンドの退職理由は至極簡単で、左腕欠損と酷い右足損傷。義手で見た目だけを繕い、体温も指紋もない片手は白の皮手袋で覆われている。

 彼の軍人人生を終わらせた大怪我は、民間人を守り抜いた名誉の負傷だと海軍内で一時騒がれていたけれど、クザンは一言、事務職でもいいから戻ってきてくれねえかな。と、ただ一度だけ言ったきりその話題に触れることはなく、普段とさして変わらずふらりと仕事を放棄していた記憶があった。

 ルマンドが海兵を辞めた丁度半年後、大将青雉は諦めたように呟いた。

『ああ、つまらねえなあ』

 そう、一言。つまらない、と。何でもない日常であれ、大将青雉には楽しかったのだろうか。いてもいなくても彼は変わらなかったし、業務態度だって何一つ変わらない。

 何がつまらなくて、何がつまらなくないのだろう。

 青雉さんの感覚はやはりよく分からないけれど。自分が慕った上司はもう同じ組織内にはいないけれど。

 グラントはゆっくり、ゆっくり遠ざかる男の背中へ駆け出した。




「――まさか、今でも覚えていてくれてるとは思ってなかったよ」

 駆け出して、呼び止めて、少しだけ話して立ち去ろう。そんなグラントの予定を大幅に狂わせたルマンドは朗らかに笑い、イチゴのショートケーキを差し出した。

「おれはもう、こんなもんで釣られる子供じゃない」
「そう言いながらきみが口に放り込もうとしているのは何?」

 深く考えることもなくケーキに突き刺したフォークをぱくりと口に押し込み、グラントは穏やかな笑顔を浮かべる男を見る。
 何?≠セと? あんたが差し出したイチゴのショートケーキだよ。口には出さず、次から次へケーキを口の中に詰め込み、いつの間にか皿の横に置かれていた洒落たカップの中身を飲み干した。

「相変わらず良い食べっぷり。胸やけしそう」

 元軍人とは思えない情けない表情をしたルマンドにグラントははっとした。

 この顔だ。いちいちそれを気に留めることはなかったけれど、青雉さんと会話している時は大抵、この、情けない顔をしていた。
 八割方情けない表情をしているくせに、やれ会議だ、やれ戦闘だと駆り出されれば日常の穏やかで情けない姿はどこへやら。さすが実力だけで中将までのし上がっただけあると見入ってしまったことさえある。

「アンタの表情筋、意外に硬いんだな」
「こんなにニコニコ笑うお兄さんの表情筋が硬かったらサカズキさんはどうなるんだい?」
「お兄さん? アンタお兄さんって歳じゃないだろ」
「じゃあ少しは労わりなさい、グラント大佐?」

 ぱっと杖から手を放したルマンドは、お道化たように右手だけを持ち上げわざとらしく首を傾げた。

「ああもう!」
「事務職でもいいから戻ってきてくれねえかな」

 弾かれたように椅子から立ち上がり、杖を拾ったグラントが動作を止める。
 その言葉は、過去に青雉さんが言っていた。一度、本当に一度だけ。

「ああそう、彼がそんなこと言ったの。いやぁ、でもそれは御免だねえ。本当は海兵になんてなりたくなかったし、命を懸ける程のものだとも思ってないから、命の最期まで軍人の肩書きを背負っていたくはない。それなのに片腕を失って、足まで不自由。名誉の負傷なんて言われても、軍人人生が最悪に近い形で終わっただけで――」

 ガタンと杖が床板を貫いた。

 口角を上げ目を細めたルマンドは白の皮手袋で覆われた左手でグラントの頭を撫で、僅かに左足を引きずりながら屋内を移動した。握った杖がバキリと悲鳴を上げたことを帳消しに出来てしまうほどの確かな違和感にグラントは眉を顰める。

 ――撫でられた手からは、義手とは思えない昔と変わらぬ体温があったように思えたし、引きずる足は、屋外にいる時とは反対の足だったのだ。

「青雉と呼ばれた彼はもう軍の兵隊ではなくなったわけだけれど、きみの――きみたちの中では今でも彼は大将?」
「……何なんだアンタは。何か文句があるのかよ」
「いいや? 文句はなにも。ただ、彼はきみたちからの信頼と忠誠を見事に裏切った男になるのに、よく焦がれていられるなあ。って、関心はしているよ」

 にこりと綺麗すぎる笑顔を浮かべたルマンドの左手には新しい皿、その上にはチーズケーキとミルフィーユ、イチゴのタルトとムースが一つずつ乗り、それはずいとグラントへ差し出される。

「――まあ、そんなことは置いといて、ケーキでも食べて楽しくお話ししようよ」
「アンタ、相変わらずホントに他人の感情が読めねェんだな」

 最悪だ。おれはもう甘い物に釣られるほど子供ではないというのに、目の前のこの男が極度に甘味を嫌うことを知っているせいで断るという選択肢が遠い。

 グラントはついに軽度歩行困難者が歩行するための生命線といえる杖を二つに分断しルマンドを睨みつけた。

「それはクザンからの贈り物だったんだけど、まあいいや。詫びる気持ちがあるなら食べていってね」

 誰に≠ニ言わないのがこの人の卑怯なところだ。青雉さんはこの人を気に入っていたから、この人のために買い求めて贈ったのだろうことは簡単に予想が付く。

 自分に詫びる気持ちがあるならと言ってくれれば「気分が悪い」の一言で出て行ってしまえるのに。

「アンタみたいな大人にだけはなりたくねェな」
「心配しなくても、真面目で優しくて正義感の強いきみは私みたいな大人にはなれないよ」

 ケーキの乗った皿をテーブルに置いたルマンドは再度微笑み、片足をずりながら正面に当たる椅子に腰かけ頬杖をついた。

 何で青雉さんはこんな人間を気に入っていたのだろうか。一体何を見て、何を思ってこの得体の知れぬ人間がいない平穏な空間をつまらない≠ニ言ったのだろうか。

「――そうだ、グラント大佐。今度杖を持ってきてはくれないかな?」

 ニコニコと、笑顔を崩さない男の台詞にグラントは激しく表情を歪め、大きく舌打ちした。

 非常に厄介な相手であるし、金輪際会いたいとも思わないけれど、致し方ない。気色悪いことこの上ないが、男の前でケーキを平らげることにして、折ってしまった杖は買ってくることにして。


 尊敬する青雉さんが補佐官として離さなかったルマンドという男のことを、おれはこの先ずっと苦手なまま記憶から消し去るのだろう。
 消し去ることさえ、できないかも知れないけれど。

『ここね、たまにクザンが顔を出しに来るんだよ。』

 嗚呼、チクショウ。早く記憶の中から死んでくれ。


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