「おれとは久しぶりだな、ハーメルン。うちの大事な船員誑かしやがって、無事に帰れると──」
「世界が動くぜ、若いの」
白煙が揺らめく。
「……テメエはどうすんだ」
「違うだろう、ここは何の話だ≠セ」
「あ? そんなことは聞いてねえ。テメエは、どうすんだ」
「我が強いねえ、さすが最悪の世代と纏められるだけのことはある」
一頻り笑ったグロディータの喉元に鬼哭を押し付けたローが舌を打つ。
滑稽とでも言いたげに再度笑った男は紫眼を閉ざし、喉元の鞘を払った。
「どうもしないさ。おれが動いたところで変わらないからね」
「いやに淡白じゃねえか、おれの船に乗り込んだ目的は何だ」
「動くなと船長命令が出ている。もう用は済んだよ、じゃあね。バイバイ」
ひらひらと手を振った男はひょいと小さな麻袋を投げ捨ててポーラータングから立ち去って行った。
あの男には葉巻より煙草の方が似合うだろう。なんて至極どうでもいいことを考えたローは「マドモアゼルによろしく」と何をよろしくされたのか分からぬままに麻袋を開く。
あの男の言動が信じられるかは別として、ペンギンはあの胡散臭い男を信用しているし、今までの資金援助と軍艦迎撃は現実である。
金貨に混ざり込んだ白い紙片をつまみ上げ、それがビブルカードだと分かったのは別の場所へ移動したがったからだ。
「しょうのねえ奴に好かれたもんだ」
ハーメルン≠フビブルカードを麻袋の下に押し込んだローは、それを些かご立腹の様子で船内に戻って来たペンギンへ投げつけた。
「いつもの貢ぎ人からの送り物だ」
「ええ!? ハーメルンが来てたんですか!」
「……ああ、今度はテメエから会いに来いってよ」
カツリコツリと足音を響かせて立ち去る船長の後ろ姿を見送ったペンギンは首を傾げる。
ローの言葉の意味を察したのが数分後、通称ハーメルン≠フ突飛な行動に台詞を失ったのは数ヶ月後の話だ。
「ビブルカードなんて置いて行って、ちゃっかり船にいるってどういうつもりなんだよ」
「どうもこうもないさ。さっき商船が沈んでしまってね」
ワインレッドのマントに高いピンヒールという特徴的な男にペンギンは苦笑いした。
その後で今朝方届いた新聞で大々的に取り上げられた白ひげ海賊団二番隊隊長ポートガス・D・エース≠フ記事を思い出す。
「近々戦争でも起きそうだよな。世界が変わったらどうする?」
決してハーメルンと呼んでいる男の言葉を疑い、船長の言葉を鵜呑みにするわけではないが、ペンギンはそのニュースが少なからず彼にも関係があると踏んで訊ねた。
「……そうだね、エディが死んだら考えるよ」
彼にエディと呼ばれるその人のフルネームがエドワード・ニューゲートであることを知ってしまっていたペンギンが瞠目する。
その台詞は「腸が煮えくり返っている」と、首謀者を殺しに行かんばかりの剣幕で電伝虫と話していた男とは思えない。
「物騒なこと言うじゃねえの、恩人なんだろ?」
「恩人? いやあ、違うな。しかし驚いたきみも可愛いね」
──恩人だと思っていた。否、恩人であってほしいと、思っていた。
間に入ることが困難だと切り捨てられる関係であってほしいと、そう思っていたのだ。
その理由は分からない。この男に興味もない。
どんな生い立ちだとか、どんな価値観で生きているのかとか、そんなくだらないことに興味はないのだ。
興味を持ってはいけないはずだったのだ。
「毎回毎回凝りもせず男に可愛いなんて、お前相当カワイソウな奴だな」
「可哀想な奴で結構! ペンギンが可愛いのは事実だからね」
「事実って。さてはお前、目が腐ってやがんな? うちの船長に診てもらった方がいいんじゃねえの」
甲板の手すりに腰かけ、悠長に足を組む男が笑う。
思えばペンギンは、この男の名前すら知らなかった。
「なんだかんだ必死に理由を付けて、ペンギンはおれにハートの海賊団の一員になってほしいんだよね?」
細められた瞳にペンギンは帽子のツバを引き下げる。
日差しに色を抜かれたかの如く、褪せた頭髪の奥から窺える瞳と目を合わせることを嫌ったからだ。
「そんなわけ、ねえだろうが」
「そうかい。ザンネン」
かつりと甲板を叩いた男の靴底にハッとして顔を上げたペンギンは、にんまりと笑った男に帽子を奪い取られる。
「きみは本当に、かあいいねえ」
耳元に唇を寄せて男がそういえば、瞬く間にペンギンの顔が赤く染まった。
切っ掛けなんて些細なものだ。
偶然立ち寄って、偶然声を掛けた相手が思いの外掴み所のない人間で、その人を支えてやりたいという感情が芽生えたのがいつだなんて明確に分かるはずもない。
自分がその人の名前を知らないことは不服なのに、酷く優しい声で呼ばれた自分の名前は恋しいのだ。
正直、彼になら騙されてもいいと思う。
あの人の今の痛みや葛藤を考えると心が苦しいけれど、起きてしまったことはもうどうにもできないのだ。
遠くで聞こえる咆哮にも似た悲鳴が、あの戦いの凄惨さを物語るように蠢いている。
夢の女人国だとキャスケット帽が鼻の下を伸ばしているし、その気持ちも分かるから、少し、気が緩む。
現実だ。全て、現実だ。
あの戦争に彼は、ハーメルンはいなかったようであるし、あの男の存命は仕込まれていたビブルカードで確認している。
明らかに縮んでいるその紙片は不安を掻き立てるけれど、まだ、生きていた。生きているのなら、きっと彼らが次に起こすだろう争いに加勢するはずだ。
彼は死なない。殺させない。
ペンギンはぐしゃりとビブルカードを握り締めた。
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