馬鹿とアルコール



最初に鼻をついたアルコールの匂いが、酷く肺の底に媚り着いて離れなかった。

「太宰さん、また飲んでるの?」
テーブルの上に転がった空のウイスキーボトルを立て直しながら、太宰と向かい合った椅子を引いた。部屋に充満するアルコール独特の匂い。かなりの数呑んだらしいが太宰治の頬はまだ女の肌より白い、肌色だった。
陽はとっくに沈んでいるが台所には何かが料理された痕跡は無い。夜が蝉が鳴くのを許容するほどの夏はまだ来ていないが、窓を開けていても肌が湿るほどの蒸し暑さはある。
冷蔵庫から取り出したばかりであろうウイスキーのボトルに、気化熱で液化した水滴が縁を伝った。
「君も飲むかい?」
「…太宰さんから誘ってくるなんて珍しいね」
「誘ってなどないさ」
でも遠慮しておくよ。目の前にあったボトルを太宰の方に寄せて、代わりにポケットから取り出した、ポケットに入って少し角が丸く潰れた煙草の箱を置いた。
十本入りと端に印刷されたその箱にはもう四回分の煙草しか入っていなかった。
此処で吸うのか。太宰の目が言外にそう聞いていた。
此処で吸うとも。箱の煙草が、三回分に減っていた。
「そんに煙草ばかり吸って、君が自殺志願者だなんて知らなかったねえ」
口で煙草を咥えて、使い古したジッポで火を付けた。何も答えなかった。もう嗅ぎ馴れたが未だ鼻の奥に着いて離れない副流煙の匂いが部屋に漂う。
香水を付ける趣味はないが、薄らと纏うこの独特な煙草の匂いは、冬の朝のような彼女の輪郭を炙り出す。汗が暑さで太宰の頬を伝った。
「……アル中に言われたくないな」
たっぷりと十秒かけて煙を吐き出してからやっと応える。太宰はグラス越しにこちらを見ているだけである。その人を見透かす様な瞳が、苦手だ。
ベランダに取り付けた風鈴の代わりに太宰の手元でグラスに入った氷が溶けて、音を立てる。
「アル中じゃあないさ」
グラスを飲み干して太宰は新しいボトルに手を伸ばした。遠くで車の喧騒が聴こえてきた。
部屋に満ちたアルコールは、既に吐き出された副流煙と混ざっていた。吐き出されたそれは、主流煙より何倍もの害悪を人体に及ぼす。
「……死にたくは、ないな」
ニコチンを舌で撫でながらぽつりと呟いた。誰に聞かせるつもりでもなかった。
「そうかい」
嘲笑か、微笑か、あるいはただ意味の無い微笑みか。目を細めた太宰の頬が、少し赤みを帯びていた。
「死にたくはないよ」
「私は早く死にたいね」
嘗てこの街の誰よりも黒いと言われたこの男は、今ではもう何処にも行けない。この街で生きていくこと以外、何者にもなれなかった。
ニコチンは、人の体温の低下を促進させるらしい。血流が遅くなり、それは最終的に体外に排出されず肺に溜まって黒く染める。
頬に赤みを帯びた太宰の心拍は、きっと彼女のそれより速い。全身の血流の速さは、きっと彼女のそれより速い。
そうだとしても、この街でこの男を死なすこと無く生きていきたいと思った。生きていきたいと思ったが、煙草の煙が気管を通って肺に溜まるニコチンがあまりにも心地良くて目を閉じた。何処にも行けないままでいい。何者にもなれないままでよかった。
今は少し、夢を見ていたい。

「そうだとしても、私はこの世界から早くいなくなりたいものだよ」
グラスを手の中に持て余して太宰が呟いた。アルコールで煩くなった心臓の音が、腹が立つほど煩かった。
これでは死んでも叩き起されてしまいそうであると、眠そうに煙草を吸う彼女を眺めながら太宰は思った。



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