「あの………これ、落としましたよ」
背後から聞こえてきた鈴を転がしたような声に、巡回中であった佐々木はその足を止めた。
はて、自分は一体何を落としてしまったのだろうかと考えながら振り返り……思わず息を呑む。
「このハンカチ、貴方のですよね?」
笑顔を浮かべ、コテンと首を傾げながら真っ白なハンカチを差し出す女性から、佐々木は目を離すことが出来なかった。
柔らかそうな髪に、うっすらとピンクに染まった頬、長い睫毛に縁取られた輝く瞳、小さく可愛らしい口元。
彼女を造形する全てに、まるで雷に打たれたかのような激しい衝撃が全身を駆け抜ける。
(…………なんて……)
―――なんて可憐な女性なんだろうか。
早鐘のようにドクドクと脈打つ心臓を隊服の上から押さえ付けていると、女性が心配そうに再び声を掛けてきてハッとする。
そうだ、ハンカチを受け取らなくては。
「え、えぇ……それは私の物です。どうもありがとうございます」
「いえいえ!……それじゃあ、私はこれで…」
「っ……待って下さい…!お礼を……お礼をさせてはいただけないでしょうか?その……大切なハンカチだったので……」
ハンカチを渡し終え立ち去ろうとした女性の腕を咄嗟に掴む。
……このハンカチは特別大切な物ではないが、このまま何の繋がりも無く彼女と別れてしまうのは嫌だと、純粋にそう思ったのだ。
「そんなそんな、大袈裟ですよ」
「しかし……」
「ありがとうございます。でも、お気持ちだけで十分ですから……ね?」
「っ……」
彼女の腕を掴んでいた手を優しく撫でられ、思わず力が緩んで離してしまう。はんなりと微笑んで去っていく女に、佐々木の口からは深い溜め息が零れた。
(名前すら……聞けなかった……)
ぼんやりと立ち尽くす佐々木の元にやって来た信女は、彼の視線の先を歩く女性の存在に気付き首を傾げた。
「異三郎、何してるの?」
「……あの可憐な女性にはもう二度と会えないのかと悲しみに暮れているだけです…………あぁ、せめて名前だけでも聞くことが出来ていたら……」
「………みょうじなまえ」
「………は?」
「“サービス提供、お客様満足度ナンバーワン”」
「ちょ、ちょっと……信女さん?貴女、何を言って……」
突然訳のわからない単語を口にし始めた信女に佐々木は困惑しながらも聞き返せば、彼女の感情の汲み取れぬ瞳がスッと細められる。
「あの子、異三郎がいつも買いに行かないほうの店舗のマスドの店員」
「……!!」
お土産はポンテリングで良いからと横を通り過ぎていく信女を尻目に、佐々木は心の中で小さくガッツポーズをした。
………どうやら、あの女性に会う手立てはまだあるらしい。
―――――
―――
――
……あれからというもの。
佐々木はなまえと仲良くなる為に、いつもドーナツを買う馴染みの店舗から彼女が勤めている店舗へと通い先を変えた。
無論、何度も足を運ぶことでなまえとは面識も出来たし、名前も覚えてもらうことが出来た。
次の段階は、彼女の連絡先を聞き出すことだ。メアドを手に入れて、ゆくゆくは彼女をデートにも誘いたい。
止まらぬ妄想に思わず緩んでしまいそうになる口元を片手で隠すと、開いていた書物をパタリと閉じる。
「さて……そろそろ休憩としましょうかね」
職務を片付けた佐々木は、少し焦るようにして屯所を後にする。彼の向かう先はもちろん―――――
「いらっしゃいま……あ!佐々木さん!今日も来て下さったんですね」
向かった先は……そう、なまえの勤めるマスタードーナツ。
ドキドキと緊張しながらもその扉を開けば、眩しいくらいの笑顔で出迎えてくれるなまえ。
そのあまりにも愛らしい姿に、佐々木は思わず目尻を下げた。
(なんて可愛らしい笑顔……)
カウンター越しから微笑むなまえに小さく笑い返すと、手にしたトレイへ次々とドーナツを乗せていく。
そのままレジへ向かえば、待ち構えていたなまえにクスクスと笑われてしまった。
「佐々木さん、本当にドーナツがお好きなんですね。いつもこんなに沢山!全部お一人で?」
「いや、まぁ、私も食べますが……部下にドーナツ好きの子がいるので、その子への差し入れがほとんどです」
「あ、もしかして信女ちゃんですか?」
「えぇ、そうですが……お二人はお知り合いだったんですか?」
「そうなんです!信女ちゃんって前からこのお店の常連さんで、ドーナツ好き同士すごく話が合うんです!……実はアドレスも交換してて、メル友でもあるんですよ」
「!?……メル、友…?」
自分が彼女からどう連絡先を聞き出そうか悩んでいる間、部下に先を越されてしまっていたなんて…!!
……正直、信女が非常に羨ましい。自分も彼女のメアドを手に入れ、今すぐメル友になりたい。……しかしその為には、今この場で、自分から彼女へアドレス交換を提案しなければ。
ニコニコと笑うなまえを目の前に、あっという間に熱が集中してしまった頭をなんとかフル回転させ……漸くその口を開いた。
「あの、なまえさん……大変恐れ入りますが、その………メ……」
「め……?」
きょとんと見上げるなまえの瞳が、佐々木の脈拍をどんどん早くする。
「メ…………っ」
「………?」
あぁ、なまえさん、どうか私とメアドの交換を……!
「……………………メープルシロップ入りポンテリングも追加でお願い出来ますか?」
「……あ、はい!喜んで!!」
笑顔でドーナツを取りに行くなまえの姿に、佐々木は力無く項垂れた。
(………何を、しているんでしょうかね。私は……)
自分は、今まで女性と接する際に困ったことなど一度も無い。エスコートするのもリードするのも、考えずとも体が勝手に動くほど身についている。
……それなのに。そうだというのに。
どういう訳か彼女を目の前にすると、全身が硬直し、動悸に軽い眩暈……酷い時には頭の中が真っ白になり、言葉すら出てこない。
エリートであるはずの自分が、こんなにも情けない痴態を晒す日が来るなんて……。
俯き、溜め息を吐いていると、視線の先になまえの顔がこちらを覗き込むようにしてひょこりと現れた。
「大丈夫……ですか?具合が悪いのなら、裏に休憩室があるので休まれていきますか?」
「っ…………すみません、少し考え事を……体調は悪くないので大丈夫ですよ。お気遣いいただき、ありがとうございます」
「いえいえ!お仕事もお忙しいでしょうし、無理なさらないで下さいね?
……あ、そうだ!もしお時間に余裕があるんでしたら、コーヒーでも飲んでいきませんか?」
「コーヒー……ですか……」
「はい!………実は私、もうすぐバイト上がりなんです。終わった後、いつも此処でドーナツを食べてから帰るんですけど……一人だとちょっぴり寂しいし、なんだか味気なくて……」
コーヒーはご馳走しますので、良ければご一緒してもらえませんか?と首を傾げるなまえに佐々木は暫くの間呆然と立ち尽くし……その後彼女の心配そうな声に我に返り、無言で何度も頷いた。
「ふふ、ありがとうございます。じゃあ、お好きな席で待っていて下さい……すぐに着替えてきますので」
結い上げた髪をふわりと揺らし、なまえがバックヤードへと姿を消したそのすぐ後のこと。佐々木は無意識に小さくガッツポーズを決めた。
―
―――
―
「こうやって仕事終わりに誰かとドーナツを食べることが出来るなんて……本当に嬉しいです」
「そ、そうですか……それは良かった……」
「はい!夢のようです!!」
(………私も、夢のようです……)
好いた女性と向かい合って座り、笑顔を交わしドーナツを食べる。
これ以上の至福はあるのだろうかと佐々木は堪らず表情を崩した。
「それにしても……信女さんとはこうしてドーナツを一緒に食べたりしないんですか?」
「あ……信女ちゃんって来るタイミングがよくわからないので、なかなか時間が合わないんです。メールも見てないことが多いみたいで……まぁ、そんなマイペースなところも大好きなんですけどねっ」
「……!!」
なまえの言葉に佐々木の眉がピクリと動く。
彼女の口から飛び出た信女に対する“大好き”の言葉も非常に羨ましく気になるところだが……それよりも……
(これは、チャンスではないか……!?)
・なまえは仕事終わりに一人でドーナツを食べることに寂しさを感じている。
・一緒に食べるのに打って付けな信女は、あのマイペースさ故になかなか時間が合わない。
……ならば。ならば私が、その相手になればいいじゃないか…!!
「なまえさん。その……折り入ってお話があるのですが……」
「はい、何でしょうか?」
彼女の真っ直ぐな瞳が自分を映す……たったそれだけで、心拍数が上がる。
「……実は私も、休憩時間に一人で過ごすことが多いんです。それで、あー……その、貴女さえ良ければ……こうしてまた、バイト終わりの時間をご一緒させてはいただけませんか?」
「え!いいんですか……?佐々木さんもお忙しいでしょうし、無理には……」
「無理なんてしていません…!私が、貴女と過ごしたいんです……」
「へ!?……あ、ありがとうございます……えと、その………よ……よろしくお願いします!」
頬を真っ赤に染め慌てて頭を下げるなまえの様子に、佐々木は“今だ…!”と心の中で自分を奮い起こす。
「っ……では、いろいろと連絡が取れた方が良いでしょうし………………メアドを、教えていただいても…?」
とうとう口にした台詞に汗がどっと吹き出る。声は震えていなかっただろうか。彼女にはきちんと伝わっただろうか。
そんな佐々木の心配をよそに、顔を上げたなまえはぱちくりと数回瞬きを繰り返し………そして綺麗に笑った。
「…………はい、喜んで…!」
嬉しそうに、でも何処か恥ずかしそうに携帯を取り出す彼女に佐々木の胸がじわりと温かくなる。
思春期の男児よろしく、こんな些細なことでまごついてしまうなんて……この調子では、彼女と親密な関係になるのはまだまだ先になりそうだ。
再び零れ落ちそうになった溜め息は極上のコーヒーで押し流し、佐々木はその口元をやんわり緩ませた。
(異三郎、なまえとドーナツ食べる約束したの?)
(えぇ、しましたが……それがどうかしましたか?)
(…………私も行く)
(なっ……そ、そんな急に人数が増えてしまったらなまえさんも困ってしまいますよ)
(ドーナツ好きの私が仲間に入ればなまえは喜ぶと思う。なまえの喜ぶ顔、見たくないの……?)
(…………)
((なまえさんと親しくなるのに、まさかこの子が一番の難関になるとは……))