「ただいま帰りました」
「…………お、おかえりなさい……です……」
「今日は少し仕事が長引いてしまいましたよ。入浴は済ませましたか?」
「は、はい……」
平日の夜。ガチャリと鍵が開く音に続いて当たり前のように部屋へと上がってきたのは、メル友の彼。
……どういう訳か、彼は近頃頻繁に私の家へ泊まりにやって来る。
少し前までは週末だけだった。けれど今では……ほぼ毎日。
「では、私も早急に済ませてくるとしましょう」
「え、あ、あのっ……疲れてるでしょうし、ゆっくりでも……」
「私のことはお気になさらず。少しでも長くなまえさんと過ごしたいだけなので」
「っ……!!」
……それに、何だかとても、
(や、優しいというか……何というか……っ)
異三郎さんの私への接し方がとても甘い。
例えるなら、角砂糖を口いっぱいに頬張っているような、一度では溶かしきれない程の甘さだ。
ホワイトデー以降……異三郎さんはこうして今まで以上に甘い“特別な親友同士のノウハウ”を教え実践してくれるようになった。
それはすごく嬉しいことだ。けれど同時に、引き裂かれるような胸の痛みが常に付いて回った。
自分が望んだことだというのに……彼が私に触れ、微笑む度に鋭さを増していくその痛みは、いつか心に被せた蓋をこじ開けてしまうのではないかと不安が募った。
「なまえさん、お待たせしました」
幾らか時間が過ぎた後。言葉通り早急に湯浴みを済ませた異三郎さんが、ソファーに座る私の隣へと腰を下ろした。
ふわりと鼻先をくすぐった自分と同じ香りに、気恥ずかしさから心臓が煩く高鳴る。
「……ゆ、湯加減は大丈夫でしたか?あの、ぬるかったりとか……」
「大丈夫でしたよ。いつも適温に調節して下さってありがとうございます」
「い、いえ…………っ!?」
「お陰で毎回疲れがしっかり取れますよ」
不意に、異三郎さんが私を抱き寄せて頭に唇を押し当てた。瞬時に頬がカッと熱くなり、動悸が更に増していく。
こうした過激なスキンシップも特別な親友という間柄では普通のことで、少しずつでも慣れていかなくてはいけないのだと教えてもらったのはまだまだ記憶に新しい。
今までなら卒倒しているであろうこの行為……異三郎さんの積極的な実践の甲斐あって、気を失うことは無くなった。
でも…………、
(やっぱり……胸が、痛い…………)
「っ……あ、あの……!」
「どうかしましたか?」
「き、今日、ちょっと疲れてて……その…………寝たいなぁ……なんて……」
これ以上は心臓が潰れてしまいそうで、今日はもう寝てしまおうと咄嗟に嘘をついた。
いつも私が寝入るまでは絶対にベッドに来ない異三郎さん。早く寝てしまえば、この痛みから一時的でも逃げられると思ったのだ。
すると、おずおずと伝えた言葉に異三郎さんの表情が少し驚いたものへと変わった。
「そうでしたか。気が付けず申し訳ありませんでした……では……」
「は、はい、おやすみなさ…………え?」
いつも通り、おやすみなさいの言葉で異三郎さんとの一日を締め括ろうとしたのに。
何か勘違いしたらしい彼は、おもむろに私を抱き上げた。
すごく……ものすっ……ごく嬉しそうに。
そのままの状態で、テレビの電源やらを消しながら行き着いた先は勿論ベッドで……優しい動作で私を下ろし横たえた後、異三郎さんもベッドへと潜り込んで来た。
呆気にとられて隣で横になった異三郎さんを凝視していると、目が合った瞬間正面から抱き寄せられた。急激に近くなった距離感に上手く呼吸が出来ず、弱々しい空気の抜ける音が口から零れる。
「っ…………あ、あの……異三郎さん……っ」
「まさかなまえさんから就寝の誘いをしていただけるとは……」
「え!?」
「今まで我慢してきましたが、遠慮は無用だったようですね」
「や、あ、あの……あぅ…っ」
「……あぁ、可愛い……またこうして貴女が眠るところを間近で見守れるなんて夢のようです」
私の額やこめかみに口づけを落としていく異三郎さんの表情は、嬉しそうなものから恍惚としたものに変わっていた。
時折こちらを見下ろす瞳が、私から考える力を奪っていく。
どうしよう、どうしよう、こんなの…………眠れる訳がない……!!
「い、異三郎……さん!その……こんな近くで向き合ってると……は、恥ずかしくて……」
「…………」
「眠れそうに、な、ないので……あの……えっと……っ」
「では、後ろから抱きしめるのは問題ないと」
「や、あのっ……………………は、い……」
―――本当は、抱きしめること自体やめて欲しかったです。
ご機嫌そのものな彼にそんなこと言えるはずもなく。
結局、横を向いた私の背後に異三郎さんがぴたりと引っ付き、後ろから抱きしめられて眠ることになってしまった。
私の肩辺りと脇腹に回った逞しい両腕は、苦しいくらいに私を締め付けている。
「体は痛くないですか?」
「は、はい……大丈夫、です。異三郎さんは、腕……痛くないんですか……?」
「なまえさんと寄り添っていると喜び以外感じませんので大丈夫です」
「っ……そ、ですか……」
違う。苦しいのは体じゃない。
心が苦しいんだ。
蓋をしたのに……鎖や頑丈な鍵を取り付けてまで、彼を異性として好きだという気持ちを消そうとしているのに……。
彼との触れ合いが、それを許してくれない。
どうしたら消せる?
どうしたらずっと一緒に……――――
(あぁ、そっか……)
私が知らないことなら、彼に聞けば…………、
「……異三郎、さん」
「どうかしましたか?」
「あ、の…………過去に忘れられない、大好きな人がいたとして……。その人への気持ちの消し方を………異三郎さんは知ってますか…?」
「は…………え?」
「……も、もし、知ってるなら……教えて欲しくて……め、迷惑でなければ……!」
今まで、友人関係のノウハウを沢山私に教えてくれた異三郎さん。博識な彼のことだから、きっとこういった面でも知識は豊富なはずだ。
そう考えて、問い掛けたのに。
珍しく彼は言葉を詰まらせた。
「異三郎さん……?」
「…………」
「……………あ………あの、ごめんなさいっ……変なこと聞いて!や、やっぱり……迷惑、ですよね……」
「っ………いえ……迷惑だなんてことは……………ただ……」
言葉を切った後、ギュウッと私を抱きしめる異三郎さんの腕の力が強くなる。
必然的に密着度が増し、後頭部に掛かる彼の吐息や体を締め付ける腕の強さに心臓がバクバクと暴れ出した。
……だけど。
「…………いるんですか?ずっと忘れられない人が…………今も、貴女の心に……」
そんな胸の騒がしさは、異三郎さんの弱々しい呟きで一気に静まり返った。
「……あ、の…………」
思いもよらぬ彼の弱気な様子に、今度は私が言葉を詰まらせる。どうしたのだろうと心配になり、異三郎さんの腕に自分の手をそっと添えてみるも、私を抱きしめる力は緩まらない。
むしろ、更に力が強くなった。
「ぅぐっ…………あの、い、異三郎さん……く、苦し……っ」
「…………どうなんです。いるんですか?忘れられない人とやらが」
「っ……や、あの、た、例えばの……話で……」
「例え話?貴女が……?」
「ひっ……あ、あの……!」
さっきよりも低くなった声で囁かれ、思わず肩が跳ねる。表情は見えないけれど、異三郎さんの機嫌が降下していくのが手に取るようにわかった。
……ど、どうしよう…!?
私が馬鹿なことを聞いたから、お、お、怒ってるのかもしれない…!!
狼狽える私に気付いていないのか、異三郎さんはそのままの声のトーンでまた話し始めた。
「…………忘れられないなら、そこからまた新しく紡いでいけば良いのです」
「……え?」
「友人、恋人、家族……どんな深い結び付きにも別れは必ずあります。なぜ人間が“別れ”という悲しみを乗り越えることが出来るのか……」
―――別れは必ずある。
異三郎さんが放った言葉はごくありふれた……当たり前のことだった。
けれど、その言葉はまるで、私達にも別れがあるのだと遠回しに伝えているようで……胸が狭く、苦しくなった。頭の奥がジンジンと痺れ、酷く悲しい気持ちが涙腺を刺激する。
ぐずりと鼻を啜ると異三郎さんがあやすように私の頭をゆっくりと撫で、また言葉を続けた。
……今度は、いつもの優しい声色で。
「それは…………新たな出会いがあるからだと、私は思っています」
「新たな、出会い……」
「そうです……。新たな出会いが気持ちを前へと向かせ、新しい日々へ踏み出そうという想いを大きく成長させる」
そう呟いた異三郎さんの声は穏やかなものだったのに、何処か寂しげで……、
また胸がキュッと狭くなった。
「なまえさんも、新しい出会いによって気持ちを一新出来るはずです。その相手は案外近くに…………いえ、もう既に出会っているかもしれません」
(…………近くに?もう出会ってるなんて想像もつかない……)
でも。もしも、そうだとして……、
私は異三郎さんへの気持ちを忘れられるくらい、その人に夢中になれるのだろうか。
好きに なれるのだろうか。
――――
――
私の腕の中でスヤスヤと寝息を立てているなまえさん。
彼女が身も心も自分に預けてくれているのだと感じられる、幸せなはずのこの時間……今日は、どうにも心穏やかではいられない。
『――……過去に忘れられない、大好きな人がいたとして……。その人への気持ちの消し方を………異三郎さんは知ってますか…?』
あの話……なまえさんは例え話だと言っていた。
けれど、彼女が例え話を持ち出す時、実際は彼女自身が悩んでいたり、はたまた関わっていたり……なんてことがほとんどだ。
今回の件も、恐らくその類い。
(まさか、なまえさんに忘れられない想い人がいるなんて……)
初で消極的で内気ななまえさん。
そんな彼女の心に、よもやそのような存在が居座っているとは微塵も思わなかった。
久方ぶりに沸き起こった、このドロドロとした黒い感情に思わず眉間に力が入る。
「……私では駄目ですか?私とでは、新しく紡ぐことは出来ませんか?
今、貴女の一番近くにいるのは私のはずです…………どうか私だけを想い、慕い、焦がれて下さい……」
今はまだ親友として過ごさなくてはいけない。そのことを口惜しく感じたことなど、今まで一度も無かったというのに。
抑え切れない憤りに、面と向かっては到底言えない言葉がつかえることなく滑り落ちていく。
「…………異三郎……さん」
「っ……!?」
不意に、眠っているとばかり思っていたなまえさんが私の名前を呟きながら身じろいだ。
実は彼女は起きていて、吐き出した弱音も全て聞かれてしまったのではと硬直するも、もそもそとこちらに寝返りをうった彼女の目はしっかり閉じられていた。
「寝言、でしたか……」
ほっと息を吐き出し彼女の頭を優しく撫でれば、眼下でその顔がふにゃりと嬉しそうに笑った。
「…………まったく。最近は貴女に振り回されてばかりですね」
何も知らない、何も疑わない彼女を自分から離れないようにする為、手を変え品を変え……あらゆる手を尽くしてきた。
しかし。いつからか、私だけの言葉や行動に瞳を輝かせ、頬を染め、振り回されていた彼女の周りに第三者が現れ始めて……今では、私の立場が振り回す側から振り回される側へとすっかり変わってしまった。
「情けない話ですが……私はもう、貴女無しでは過ごしていけないようです」
想い人を忘れて欲しいとは思わない。けれど、早く思い出になってしまえばいいとは思う。
―――私自身の理性も、そろそろ限界が近いのだから。
「はぁ…………今になって貴女との距離感がわからなくなるとは。とんだ計算違いですよ……」
遠ざかることも近付き過ぎることも出来ない、この曖昧な関係。私から距離を詰める行為は十分過ぎるほど行ってきた。
後は彼女の問題だ。
「なまえさん…………早くこちらに転がり落ちてしまいなさい」
額に口づけを落とすと、彼女はまた嬉しそうに笑った。
どんな夢を見ているのやら、人の気も知らず幸せそうに笑う彼女が憎らしいくらいに愛らしくて……朝目を覚ました時も口づけを沢山贈ってやろうと、笑みを零して両の目を閉じた。
((ん……何か、顔、くすぐったい……))
(………………ん!?)
(おや、起きてしまいましたか。おはようございます)
(っ……い、い、い、今、ほっぺにき、き、キス……あっ……お、おでこまで…!!)
(私達の間柄では普通のことだと以前教えたでしょう。いい加減慣れていただかないと……)
(で、でもっ……こんな……顔中に、た、沢山するなんて………ひゃっ…!)
(ほう……顔は嫌だと。では、首から下の至る所に……)
(っ……か、顔で!顔でお願いします…!!)
((“首から下の至る所”って一体……!?)
((……とは言っても。やはり唇への口づけは想いが通じ合ってからが……もう少し我慢ですね))