「今度の14日、寄り道はせずに真っ直ぐ帰って来て下さいよ」

「え?何ですか急に……」

「……わからないんですか?3月14日ですよ?」

「えぇっと…………あ!も、もしかして、ホワイトデー……?いや、でも、まさかね」

「お返しはいらないようですね」

「え!?ほ、本当にホワイトデーのこと?!いります!お返し、欲しいです…っ!!」








『でしたら、仕事が終わったらすぐに帰ること。……いいですね?』







そんな夢みたいな約束事をして。


ウキウキしながら当日を迎えて。


浮足立った状態で出勤して、でも仕事はしっかり終わらせて――………





(いつも通り、帰れると思ったんだけどなぁ……)




目の前には机上に積まれた書類の山。
机を隔てた向こう側には、半泣き状態で書類に向かう後輩ちゃん。



「っ…………なまえ先輩、私のせいで本当にすみません……。予定、ありましたよね……」

「え?あ……いやいや、大丈夫だよ。さっ、頑張って進めよう!」

「はい……っ」



今日は嬉しい楽しいホワイトデー……の、はずだったんだけれども。
何ともまぁ、べたと言うかお約束と言うか、イベントの日に限ってトラブルが起きたりするものだ。

……思い返せば、今日は朝からついてなかった。

上司には理不尽なことで怒鳴られるし、食堂の券売機にはお金飲まれるし、デスクの上でお茶は零すし、極めつけは目の前の真っさらな書類達。



(まさか、明日使う書類をシュレッダーにかけられるとは……)



零れそうになる溜め息をグッと飲み込み、ペンを走らせる。

書類の作り直しを始めてからどれくらい経つだろうか。時刻は定時30分前。このペースだと定刻退勤は到底出来そうもない。



「先輩すみません、ちょっと連絡してきてもいいですか?」

「どうぞどうぞ」

「ありがとうございます」



席を立った彼女を笑顔で見送る。あの様子からして、きっと予定があるのだろう。
……彼女の為にも、自分の為にも、少しでも早く終われるようにと気合いを入れ直し再び書類に向かった。



(あ……その前に。私もメール送っておこう)



残業になってしまった旨の文章を打ち、手早く送信する。
これで多少遅くなったとしても、過保護な彼に心配はかけないはずだ。

……けれど。待たせてしまうことに変わりはないので心はスッキリしない。




「なまえさん」




携帯電話の画面を見つめ、家で待っている佐々木さんのことを考え込んでいると不意に名前を呼ばれた。
ハッとして顔を上げれば、いつの間にいたのか私の隣に心配そうな表情の田中くんが立っていた。



「田中くん……」

「俺、手伝いますよ」

「えっ……だ、大丈夫だよ!これは私の担当だし、田中くんはこの後の飲み会行くんでしょ?私は元々参加しない予定だったから、多少残業になっても……」

「嘘つき。今日は早く帰らなきゃいけない日だって知ってますよ」

「何で?!あ、まさか佐々木さんから……」

「そうですよ、佐々木さんから大量のメールが送り付けられてきたんですよ……ほら」

「うわぁ……」



田中くんが見せてくれた携帯電話の画面には佐々木さんの名前がズラリと並んでいて、思わず声が漏れる。
メールの中身は見えないけれど、きっと今日の彼の目論見についてがほとんどなのだろう。

佐々木さんがホワイトデーに何を用意してくれているのかなんて想像もつかない……だけどその事実が、彼の気持ちが何よりも嬉しくて口元がふにゃりと緩んだ。



「あーあ……面白くない」

「え?」

「なんでもないです。それよりほら、さっさと終わらせましょ」

「えぇ〜…………ほ、本当にいいの?」

「いいんですってば。あとコレ、あげます」

「……キャンディーだ」

「ホワイトデーですからね」

「何から何までスミマセン……ありがとうね」



田中くんの優しさに感動していると、慌てた様子の同僚が私達の元へとやってきた。

……あれ。嫌な予感が。




「田中!課長からの呼び出し忘れてるだろ!!」

「え?…………あぁぁぁ!?すみません!すぐ行きます……!!なまえさん、すみません……俺……っ」

「大丈夫大丈夫!私一人じゃないし、心配しなくてもすぐに……あ、ほら!あの子も戻ってきたから……」

「なまえ先輩!ごめんなさい!!やっぱり私、どうしても今日は定時に帰りたいんです……っ」

「……え?」




えぇぇぇぇ―――……。







―――
――





……結局。残業は私一人ですることに。


田中くんは課長の呼び出し、途中で現れた柴ちゃんは「今日はどうしても帰らなきゃいけないの、手伝えなくてごめんね!」とチョコレートをくれた。後輩ちゃんは……何でも、恋人が長期間海外に行ってしまうらしく、定時に上がらなければ見送りに間に合わないのだそうだ。

あの子が普段からいい子なのはわかっていたし、大切な人と長い間会えなくなることを考えたら、行かせてあげるほか選択肢は無いじゃない。



……後輩のカバーは先輩の務め!



そう言い聞かせて、自分を奮い立たせて、どうにか書類を作り上げて……ようやく会社を出れたのは、午後11時近くになってから。

佐々木さんに“今から帰ります”とメールを送り、ずっと我慢していた溜め息を盛大に吐き出した。



(こんなに遅くなっちゃって……帰ったら佐々木さんにちゃんと謝ろう)



今日は本当についてない。

帰路の途中、嬉しそうに寄り添うカップルを見て心がじくじくと痛んだ。
……そういえば、後輩ちゃんはしっかりと見送ることが出来ただろうか。

ぼんやりとそんなことを思い浮かべながら家へと辿り着いた私は、手にしていた鍵を思わず落としそうになった。




「お疲れ様です……随分と遅くなりましたね」




扉の前で、大きな彼が待ち構えていたから。




「佐々木、さん……」

「おかえりなさい」

「………………ただいま」



驚いて立ち尽くしたまま、優しく微笑む佐々木さんといつものように帰宅の挨拶を交わした。


それだけ。


……たったそれだけなのに、



「っ……」



私の涙腺はいとも容易く緩んでしまい、みるみるうちに視界が滲んでいく。
寸でのところで泣くことは回避出来たものの、鼻の奥がツンとして言葉が出てこない。

ついてないことばかりだった一日のせいで、どうやら私はいつになく弱気になってしまっているようだ。



「……なまえさん」



佐々木さんがゆっくりとした動作で歩きだす。程無くして隣で立ち止まり、彼の大きな手が歩きなさいと諭すように私の背中をやんわり押した。



「外はまだ少し肌寒い。さぁ、風邪をひく前に中へ入りましょう」



まるでエスコートされるように扉を開かれ、促されるまま玄関へと足を踏み入れる。
何だか急に恥ずかしくなり、ぐずりと鼻を啜って誤魔化すと、同時に香ばしい匂いが鼻先をくすぐった。


この匂いは、もしかして―――……





「佐々木さん、ご飯作ってくれたんですか……?」





ぽつりと呟きながら、その匂いに釣られるようにしてキッチンを通り抜け部屋へと向かう。

……思っていたとおり、漂う香ばしい香りの元がそこにあった。ワンルームのさして広くない空間に置かれたローテーブル。その上に、所狭しと並べられた料理が私達を出迎えた。




「何コレすご……」




色彩鮮やかなサラダに、ネギとニンニクチップが散りばめられた柔らかそうな鶏肉のステーキ。バターの香りが食欲をそそるほうれん草のソテー。それにあれはコンソメスープだろうか……透き通った黄金色の水面から丁寧に切られた野菜が顔を覗かせている。

確かに買った覚えのある食材が、自分が作った時よりも遥かに美味しそうな料理となってお皿に盛られていて、ゴクリと唾を飲み込んだ。

どれもこれも何であんなにツヤツヤでキラキラなの?エリートって万能過ぎじゃないですか?

その、あまりの出来映えに呆然としていると、佐々木さんが遠慮がちに声をかけてきた。




「私からのホワイトデーです。ここ最近まで何をお返ししようか迷っていたんですけどね。手料理ぐらいしか私には用意出来そうになかったので……お気に召しませんでしたか?」

「っ……お気に召さない訳がないですよ!こんな……嬉し過ぎます……」




気持ちもプレゼントも何もかもが本当に……すごく、すごく嬉しくて。

潤む程度で済んでいた私の瞳が瞬く間に揺らめきだし、とうとう涙が零れ落ちてしまった。




「今日……すごく、楽しみに……してて……」

「…………」

「早く帰れるように、仕事も……いつも以上、気合い入れて……取り組んだんだけど……っ」

「…………」

「っ……何か、ついてないことばっかりで……わ、私、頑張ったのに……こんな、時間に、なっちゃって……っ……せっかく、佐々木さんも、ご飯作ってくれてた、のに……!」




―――遅くなってごめんなさい。




最後まで言い切るよりも先に、佐々木さんが私を正面から抱きしめた。

驚きのあまり体がガチリと固まってしまったけれど……頭をぽんぽんと撫でられているうちに緊張が解け、安心感が胸一杯に広がって……、

久しぶりに声を上げて泣いてしまった。




「よしよし、頑張りましたね」

「わ、たしっ……本当……すごく、頑張ったんです……!」

「ええ、ええ、なまえさんはとても頑張りました。偉いですね」

「うぅ〜……!」

「頑張ったなまえさんには、ちゃんとご褒美がありますよ」

「っ……ご褒美…………料理も十分ご褒美なのに……?」

「料理はホワイトデーのプレゼントです。ご褒美は……食後のお楽しみということで」



ゆっくりと体を離し、私を見下ろした佐々木さんがいたずらっぽく笑う。
それからまた私の頭を優しく撫でると、私の手を引いてローテーブルへと向かった。



「料理、先ほど温め直したんです。どうか温かいうちに召し上がってください」



プレゼントしてもらった私よりも嬉しそうな佐々木さんがおかしくて、泣いていたこともすっかり忘れ、笑いながらテーブルを間に彼と向かい合って座る。

お互いに笑顔のまま口を開けば「いただきます」の言葉が重なり、その偶然すら嬉しくて楽しくて……堪らず笑い声を上げてしまった。







……思い返せば、今日は朝からついてなかった。

上司には理不尽なことで怒鳴られるし、食堂の券売機にはお金飲まれるし、デスクの上でお茶は零すし、残業で帰りは遅くなるし…………でも。


大きな彼が、全部引っくるめて素敵だったと思える一日へと変えてくれた。




「ふふっ……佐々木さんのお陰で、すっごく素敵なホワイトデーになりました。本当にありがとうございました!」

「喜んでいただけて何よりです。こちらこそ、どうもありがとうございました」




煩わしい接待も、辛い残業も、佐々木さんが待っていてくれるのなら、何だって頑張れる気がする。

そう思いながら口にしたステーキは、今まで味わったことのない幸せな味がした。














――――― お ま け ―――――





「さぁ、なまえさん。お待ちかねのご褒美ですよ」

「わぁ!プリンだぁ!……え?あれ?もしかして手作り……!?」

「もちろんです。いやはやインターネットとは便利ですね。検索してみたら沢山レシピが出てきてしまって……どれを作ろうか迷ってしまいましたよ」

「手作り……」

「なまえさん?」

「…………佐々木さん。性別交換しませんか」

「は?」





――――― お わ り ―――――






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