佐々木が振り返ったその先で

息を切らし苦しそうにしながらも、彼女は柔らかく微笑んだ。




「…………佐々木さん。お、お会い出来て、よかった……です……」




呼吸を整えることもせず言葉を連ねるなまえに、佐々木は得も言われぬ感情が胸に沸き起こるのを感じた。


辛いのか、苦しいのか、悲しいのか。


……少なくとも、それが明るい感情でないのは確かだった。




「貴女は相変わらずおかしなことを言う。出歩くことが出来るようになるまで回復したとは言え……こんな所にいたら、過保護な鬼の副長殿に叱られちゃいますよ」

「?おかしなことなんて……私、ずっと佐々木さんにお会いしたかったんです」

「私に?何か用事でもありましたか」

「用事、ではないんですけど。その、私…………お、お礼を……」

「…………お礼?」



ドクンと、心臓が跳ねる。

徐々に色を濃くしていくこの感情の種類を、今度こそ佐々木は明確に理解した。



「はい!私を助けて下さった、そのお礼を言いたくて……。

……佐々木さん、助けて下さり本当にありがとうございました。佐々木さんがいたから、私は今もこうして笑っていられるんです」



真っ直ぐに自分へと向けられたなまえの笑顔に佐々木の胸を占めた感情は、ドロドロとした物が全て混ざり合って出来た“後悔”だった。




(助けた?私が、彼女の笑顔を今に繋げたというのか?)




……いや、違う。自分は、


助けることが出来なかったのだ。




(助けるどころか…………私は、彼女を、)





生温い風が二人の頬を撫でる。

いつの間にか太陽をすっぽりと覆い隠してしまった灰色の雲の向こう側で、ゴロゴロと雷が控えめに鳴りだした。







―――――
―――







「……遅ぇなアイツ」

「そりゃあ遅ぇでしょうねィ。なんせ一階の自販機は四つ並んでるんで」

「は!?んな中からアイツがお前の好きなジュースをピンポイントで買って来れるわけねーだろうが!!」

「土方さんの財布がすっからかんになるのも時間の問題でさァ」

「馬鹿!なまえは金を使うことをいちいち躊躇する奴だ、ましてやそれが人の物なら尚更……アイツ夜になっても自販機の前から離れねぇぞ!!」

「あ」




弾かれるようにして慌ただしく病室を出ていく土方と沖田。

やれお前が馬鹿なこと言うからだの、そっちが失言しそうになるのが悪いだの、言い争いながら急ぎ足で廊下を進んでいく。

その時、不意に聞こえた地響きのような鈍い音に、彼らは窓越しから空を見上げた。




「あーあ。こりゃ一雨来そうですぜ」

「チッ……面倒臭ぇな」






















「なまえさん、貴女は酷く誤解しているようですね」

「え?」

「……私は、貴女を助けてなどいません」




ゴロゴロ、ゴロゴロ、空が唸る。


何を言われたのか理解出来ずぽかんと呆けるなまえの鼻先に雨がひと雫当たった。




「あ、の……佐々木さん。何を言ってるのか、よく……わからないのですが……」

「おや、貴女はもっと物分かりのいい方だと思っていましたが」

「佐々木さん……?」

「違和感を感じませんか?貴女が誘拐されたあの日、私が貴女の傍から突然いなくなったことを」

「それは、私が……ひとりで勝手に歩いていって……それで……」

「エリートである私が、貴女ひとりを見失うなんてミスを犯すはずがない」




ふたつ、みっつと雨粒が地面に落ち、染みを作り出す。

それは地面だけでなく、佐々木の隊服やなまえの病衣にも広がっていく。

何も語らない彼の瞳を隔てるモノクルや、何も語れない彼女の震える唇をも伝い、染みは大きくなっていった。




「でも……佐々木さんは、私を……助けて……助けに来て……っ」

「……私があの場所に辿り着けたことを不思議に思いませんか?ずっとアジトが見付からず難航していた捜査が、何故こんなにも容易く解決したのか……」

「そ、れは……」

「簡単なことです。貴女が狙われていることを知った私は、肌身離さず持つようにと貴女に香り袋を渡しました……。


…………発信機を忍ばせた特別な香り袋をね」

「……!!」




大きく目を見開いたなまえが、震える手で病衣のポケットを探る。
物の数秒で手に触れたそれを取り出すと、紐を解き、ゆっくりと中身を抜き出していく。

途端に強まる金木犀の香り。

その香りの元が包まれた小包に引っ掛かり、小さな機械が袋から姿を現し……そのままぽとりと地面に落ちた。






















「そういやお前、結局何のジュースが欲しかったんだ」

「え。土方さん、もしかして買ってくれるつもりですかィ…………気色悪ぃや」

「買わねーよ!……何となく聞いてみただけだ」

「“ふるふるゼリー”でさァ。まあ、買うも買わねぇも、結局は財布持ってるなまえ次第ってね」

「だから買わねーって!ありゃ俺の財布だ、買うも買わねぇも俺次第だろうが」

「……チッ」

「さりげなく舌打ちしてんじゃねーよ!!

…………ったく。それよりなまえはどこだ。待合の自販機はこれだろ?」




待合室に辿り着き、四つ並んだ自販機の前で立ち止まった土方と沖田は辺りを見回した。

人で溢れるこの場所。見渡せど見渡せど、いるはずのなまえの姿はどこにも見当たらず、土方の中で焦る気持ちが膨れ上がっていく。



(入れ違ったか?……いや、その可能性は低い……)




なら……、

……それなら、なまえはどこに。




「俺はあっちを見てきまさァ」

「ああ、頼んだ」




沖田が待合室の奥へ行ったのを見送ると、土方は何気なくある一点へと視線を移した。

視線の先はガラス戸の出入口。
扉の向こう側で案の定激しく降り始めた雨に顔をしかめた土方だったが、その雨の中を立ち尽くす人影に気付き顔色を変えた。




「っ…………何やってんだアイツ……!!」




駆け出したと同時に、雷が大きく鳴り響いた。






















土砂降りの中、地面に転がる小さな機械を見つめなまえは言葉を失った。




―――こんなこと、あるはずがない。



―――きっと何かの間違いだ。




そう自分に言い聞かせようとするも、目の前に突き付けられた真実に全身の血が抜けていくようだった。




「っ……」

「まだ理解出来ないようでしたら、私がわかりやすく教えて差し上げますよ」

「!…………や、め……」

「なまえさん」

「…やめ…て……」

「貴女は、私に、」

「や、言わない、で……っ」




佐々木が言葉を発する度、バクバクと心音が速くなる。

滲んでいたなまえの視界が……ゆらり、揺らいだ。




「…………事件解決の為に、利用されたんです」




吐き出された佐々木の残酷な言葉に、とうとうなまえの瞳から涙が溢れ出る。

震えていた手は力無くだらりと垂れ下がり、掌から香り袋が抜け落ち発信機の横に転がった。




(私、は――……)




利用されただけだった?

もし、そうなら。そうだとしたら、私と彼は―――






「事件が解決したなら貴女にもう用は無い。“友達ごっこ”はおしまいです。


……………………さようなら、みょうじさん」






―――ただの、赤の他人。






「っ――――!!」






声にならない声を上げ、なまえはその場にへたり込んだ。

段々と色を失っていく風景。

そこで唯一鮮やかに色付いていた佐々木に冷たく見下ろされた瞬間……なまえの目の前は暗闇に覆われたように真っ暗になった。



彼の優しさも、


あの温かい時間も、


何もかもが偽りだったなんて―――……。





「ぁ…………うぁ……っ……」




背を向けて歩き出した佐々木を引き留めようと手を伸ばす。けれど、言葉が出てこない。

喉の奥に声が張り付いてしまったかのように、中途半端に開いた口からは掠れた音が呼吸と共に零れた。




「っ……なまえ!!」




突如、佐々木へと必死に伸ばしていたなまえの手を誰かが強く握った。

ぼんやりとしたまま彼女はその手の主を仰ぎ見る。




「…………ひじ……かた、さん……」




現れたのは、雨に濡れることを気にも留めずなまえの元へと駆け付けた土方だった。

ポロポロと涙をとめどなく流すなまえの顔を見た彼は無意識に表情を歪ませ、次いで視界に飛び込んできた足元に転がる香り袋と小さな機械に眉を吊り上げた。




「野郎……っ」




佐々木の背中を睨み、またすぐに足元へと視線を戻す。悔しい感情をぶつけるようにして、土方の足が勢いよくそれを踏み潰した。




「……っ……クソ……!!」




彼は瞬時に状況を把握した。
佐々木は話したのだ。真相を、なまえに。

ただただ傷付けるだけだとわかっていて何故こんな、どうして故意に、

怒りが燃え盛る中、土方は上着を脱ぐとなまえの肩に掛け、そのまま小さな体を掻き抱いた。




「………………だから言っただろ……。アイツに会えば、お前は傷付くだけなんだって……」




なまえを包む腕の力強さとは真逆に、土方の口から吐き出されたのは幼子を諭すような弱々しい声。

激しい雨の中、粉々になった機械の隣で、綺麗なままの香り袋に雨が染み込んでいった。











――










「異三郎」



なまえと別れたその後。

俯きがちに歩いていた佐々木は、自身を呼ぶ小さな声に驚き顔を上げた。



「信女さん…………こんな雨の中、ずっと待っていてくれたんですか」

「……別に待ってない。遅いから、少し気になって引き返して来ただけ」

(それは“待っていた”とどう違うんですかねえ……)




相変わらずぶっきらぼうな部下の物言いに内心苦笑するも、信女のその不器用な優しさに佐々木の胸は小さく軋んだ。

きっと、彼女はわかっているのだろう。

自分が今、誰と、どのようなやり取りを行ってきたのかを。




「酷い顔……オバケみたい」

「堂々と上司の悪口を言うもんじゃありませんよ。……私だって、傷付く時は傷付きます」




雨に打たれ過ぎたせいか、考えも無しに本音を交えてしまった自身の発言に佐々木ははっとしたが、信女がそれに触れることはないだろうとすぐに肩の力を抜いた。

他人にあまり興味を抱かない彼女の性格が、今は有り難かった。








「…………知ってる」




(傷付きやすいのも、)


(傷付けることが苦手なのも、)




「前から知ってる。そんなこと」





深紅の双眼が佐々木を迷いなく映す。

予想外の信女の言葉に目を丸くした佐々木は、観念したかのように溜め息を吐くと、いびつな笑みをうっすら浮かべ口を開いた。




「……優秀な部下をもって、私は幸せ者ですね」

「その優秀な部下への臨時ボーナスはドーナツ払いでいいから」

「はいはい、仰せのままに。ドーナツ買って帰りましょう」










―――佐々木となまえ。

濡れそぼつ双方に寄り添う者はいるものの、彼らは自分の心が少しずつ冷えていくのをひっそりと感じ取っていた。

……この雨が止んでも、気持ちが晴れることはないのだろうと。




(彼女と……)(彼と……)


再び向き合うことの無い限り


きっと、ずっと、












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