「なまえが異三郎に会いたがってる」
病室に入ってくるなり上記の言葉を寄越した信女に、佐々木は真っ白な上着に袖を通しながら溜め息混じりに返答した。
「何を言い出したかと思えば……それを私に伝えたところで、変わるものなどひとつもありませんよ」
不満げに目を細めた信女を一瞥し、首元のスカーフを整える。
信女が言わんとしていることはわかる。どうして欲しいのかも。 ……けれど。それをしてしまえば、
(彼女に会ってしまえば、私は……)
同じ過ちを繰り返してしまう。
そうならない為にも、一刻も早くこの場所から立ち去らなければと、焦る気持ちから自然と手に力が入る。
そうだ。早く立ち去って、他人が溢れる外へと紛れてしまおう。
そうすれば、あの瞳に映ることも、あの声に名前を呼ばれることも、
あの温かさに 触れることだって―――……
(…………無くなって、しまうのか)
そこまで考えて、はっとする。 違う。これではまるで、自分がそのことに関して失望しているかのような……。
肯定ともとれるような胸の痛みが、次第に血の気を引かせていく。
こんな感情、あってはならない。
一人考え込んでは表情を硬くする佐々木に、信女は呆れたように溜め息をついた。
「悩むくらいなら、自分の思うがままに動けばいいじゃない」
「……思うがままに動いていますよ、この通り」
「医者を丸め込んで無理やり退院することを言ってるんじゃない。私はなまえのことを言ってるの」
「ですから、その彼女と会わないようにする為に……「あの子の容態が急変したと知っても、そう言える?」
信女の一言で一瞬、しんと、時が止まったかのように静まり返った。
中庭から聞こえていた賑やかな声は遠くなり、病室に備え付けられた時計の秒針の音だけが大きく響く。
「…………っ、」
そんな張り詰めた空気を震わせたのは、佐々木の口から漏れた…………
「馬鹿馬鹿しい」
鼻先であしらうような、小さく失笑する声だった。
「……馬鹿馬鹿しい?」
「ええ。それはもう、笑いが止まらないほどに」
「なまえが昏睡状態でも?」
「有り得ません。今日も中庭で過ごす彼女を、私はこの目で見ていますから」
「そう…………窓辺にいることが多いと思ったら、そういうこと。毎日なまえのことを見る為に外を眺めてたのね」
「なっ……違っ……!気分転換に外を見た時、たまたま見掛けることがあるだけで……!!」
「別に隠さなくてもいいじゃない」
もうなまえには会わないと言った、佐々木の決意は固かった。
しかし、本音は逆なのだろう。
その証拠に、人知れず遠くから彼女を見守り、容態が悪くなっていないかと様子を窺っては、以前と変わらぬ笑顔に胸を撫で下ろしていたのだから。
狼狽える佐々木を尻目に、どんなはったりを噛まそうと、この生真面目で不器用過ぎる男が自ら動かない限りどうすることも出来ないようだと、信女は再び溜め息をついた。
――― ――
「来週には退院出来るそうです」
ベッドの上に腰掛け、なまえは見舞いに来ていた土方と沖田に退院予定を嬉しそうに伝えた。
それを聞いた当の二人は、喜ぶどころか信じられないと言った様子でなまえを見返した。
「来週?まだ早いんじゃねぇか?」
「無理に退院して倒れられても困りまさァ」
「た、倒れたりなんてしませんよ!それに、本当だったらすぐにでも退院して大丈夫だって……」
「馬鹿言え、大丈夫な訳ないだろ」
「自分が受けた傷の酷さをわかってて言ってんのか馬鹿なまえ」
「うぅ……」
“なるべく安静に”を大前提に、なまえはいつ退院しても問題無い。 問題無い……けれど。それを過保護な真選組が許すはずもなく、ズルズルと入院生活は続き、今に至る。
そこまで自分を大切に思ってくれているなんて!と、最初こそ感激していたなまえだったが……点滴も無くなり自由に動き回ることが出来る今では、仕事をサボっているように思えてしまい、申し訳ない気持ちで押し潰されそうになっていた。 早く退院して、真選組にこの恩を働いて返さなくては、なんて焦りもある。
……それともうひとつ、すぐにでも退院したい理由があった。
「あ、あのっ…………来週退院したら、なんですけど……」
「あ?」
「その……見廻組の屯所に、行ってもいいいですか……?」
それは、自分が目を覚ましたあの日以来、ずっと会えていない佐々木に会いたいというものだった。
なまえの言葉を聞いた土方の眉がピクリと動き、眉間の皺がひとつ増える。
土方の様子にいち早く気付いた沖田は後頭部をボリボリとかきながら、面倒なことになりそうだと視線をさ迷わせた。
「信女さんには会えたんですけど…………さ……佐々木さんには、ずっと会えていなくて……」
「…………」
「……助けてくれたこと、ちゃんとお礼が言いたいんです」
“外出する時は行き先を伝えるのを忘れずに。そして、しばらくの間は必ず誰かと一緒に行動するように”
今日までに何度もそう言われてきたなまえは、その言い付けを守るべく行きたい場所を伝えたのだが……、
「駄目だ」
今回はそれが悪い方向へと転んでしまった。
「そんな、どうして……」
「っ……お前は!」
土方の大きな声に、なまえの肩がビクリと揺れる。
彼女の驚いた表情を目の当たりにし、自身を落ち着かせるように深く息を吐き出すと、土方は再び口を開いた。
「…………お前は、わかってない。アイツと……佐々木と会えば、お前は傷付くだけなんだ」
苦々しい表情で低い声を絞り出し、土方はなまえの目を真っ直ぐ見据える。 戸惑うなまえをよそに、彼は尚も言葉を続けた。
「見廻組のあの女はまだいい。だが、アイツとは絶対に会うな」
「で、も……佐々木さんは……私を助けて……」
「違う!アイツはお前をっ……「なーんか喉渇きやせんか?」
噛み合わないやり取りに、徐々に緊迫していく空気。そこへ、間延びした沖田の声が割り込んだ。 あまりにも場違いな発言になまえはきょとんとし、土方はバツが悪そうに口を閉ざした。
何とも言えない雰囲気をものともせず、沖田はなまえに近付き懐から取り出した財布を彼女に押し付けた。
「おい、なまえ。駄賃やるから、一階の待合にある自販機でジュース買ってこい」
「え?あの……自販機ならこの階にもありますけど……」
「一階の自販機にしか俺の好きなジュースが無いんでさァ」
「そうなんですか?では一階まで行ってきますね……あ!あの、ジュースの名前は……」
「言わねぇ。これだと思うやつを買ってきな。あんまりにも迷うなら、財布の中身からっぽになっても構わねーから全部買ってきなせェ」
「え!?そ、それはダメですよ!!」
「いいから早く行けってんだ」
「わっ……ちょっと、沖田さん?!」
腕を掴んで立ち上がらせると、半ば強引になまえを廊下へと押し出す。
こういった沖田の突拍子もない言動は今までも度々あったが、いつまでたっても慣れることはない。 なまえは、ただただ困り顔で何度も振り返っては、本当にいいのだろうかと彼の顔色を窺いながら重い足取りで少しずつ前へと進んでいく。
そんな彼女に、沖田は病室から上半身だけを覗かせ、早く行けと言わんばかりに手を振った。
しばらくして観念したのか、歩くスピードを上げたなまえの小さな後ろ姿が突き当たりを曲がっていく。それを見送ると沖田も病室へと戻った……が。ふいに何か思い出したかのように“あ”と呟いた彼は、また廊下へと顔を出した。
「言い忘れやしたが、その財布は土方さんのでさァ!気にせず使いなせェ!!」
「俺が気にするわ!いつの間に人の財布抜き取ったんだてめぇは!!」
「抜き取っただなんて人聞きの悪いこと言わないでくださいよ。車から降りる時、助手席に落ちてるのを拾っただけでさァ」
「そのまま俺に渡せばいいよね!?完全に自分の物にするつもりだったよね?!」
「あれ?確か落とし物拾った時はお礼十割って全国共通の規則が……」
「ある訳ねぇだろうがっ!!」
しゃあしゃあと人の財布を私物化宣言する沖田に、土方のこめかみに青筋が浮かぶ。 何をふざけたことを!と目を血走らせる土方に、沖田は打って変わって真剣な面持ちで彼と向き合った。
「まぁ、冗談はさておき」
「全然冗談になってないんだけど?俺の財布の中身が全部飲み物に変わるのも時間の問題なんだけど?!」
「土方さん。そうやってすぐかっかしてちゃあ、なまえと佐々木殿を引き離した意味がありやせんぜ」
「…………」
「なーんも知らねぇなまえに、感情のまま真実を伝えたくなる気持ちもわかります。
けどね、あの男が事件解決の為に自分を利用しただなんて知っちまったら……」
――――なまえの心は死んじまいまさァ。
「…………沖田さんの好きなジュース、見当もつきません……」
待合の自販機にたどり着いたなまえは早くも困り果てていた。
不釣り合いな男物の財布を大事そうに両手で持ち、ズラリと並んだ数多の飲み物を上から順番に見ていく。けれど、普段自販機でジュースを買うことの無いなまえには、どれがどのような味なのかわからない物ばかりだった。
果物のジュースはわかる、お茶も、珈琲……は少しだけ。
(この“ふるふるゼリー”は、ジュースなんでしょうか……でも、ゼリーって書いてありますし……)
二列目の途中で、もはや飲み物なのかも怪しい商品に当たり頭を抱える。こんなにも奇抜な飲み物が選抜されている自販機が、あと三つ横に並んでいるのだ。 この中から沖田のお気に入りのジュースを選ばなくていけないなんて……なまえは今にも目を回しそうだった。
(やっぱり、全種類買った方が……)
ぐらりと誠意が揺れ動きそうになったが、いや、それは絶対にいけない、と思い留まる。 自分なりに考えてみようと、気を取り直して自販機をキッと睨みつけた……その時。
「信女さん、何をそんなにむくれているんですか」
「別にむくれてない……先に行くから」
「……やれやれ」
聞き覚えのある…………長い間、ずっと、聞きたくても聞くことの出来なかった声が背後を通り過ぎた。
(…………え?)
恐る恐る振り返る。
入院患者に見舞い客、医師に看護師、大荷物を運ぶ業者の人間……他人で溢れるこの場所で、その後ろ姿は紛れることなくそこにいた。
会いたくて会いたくて仕方がなかったその人が、すぐそこに―――…………
「っ…………」
無意識に体が動いていた。
土方からの言い付けも、
自分がこうして一階にいる理由も、
なまえの頭の中からは何もかもが抜け落ちていた。
雑踏の中に埋もれてしまいそうな後ろ姿へ追い付こうと、ふらつく足を懸命に動かす。 その足取りは段々と小走りになり、一歩一歩と進む度、まだ治りかけの傷がズキズキと痛んだ。
それでも、止まるわけにはいかなかった。
……止まってしまえば、彼にはもう二度と会えないような気がしたから。
扉の向こう側へと消えていった彼を追い掛け、なまえも外へと飛び出した。
「……っ、佐々木さん!!」
息を切らしながらも精一杯張り上げた声に、佐々木の足が止まる。
やがて、ゆっくりと振り返った。
「………………なまえ、さん……」
穏やかな声色とは裏腹に、
その瞳はとても悲しそうに揺れていた。
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