みょうじなまえという存在が、ここまで大きなものになるとは。
きっと、あの時……彼女が真選組へと来た時は、誰もが予想していなかっただろう。
「一命は取り留めました」
力無く項垂れて廊下に佇む土方に、手術室から現れた医師がそう声を掛けた。
傷が深く出血は多かったものの、運ばれるまでの時間や急所を外れていたこと、そして臓器が一切傷付いていなかったことなど、いくつもの奇跡が重なり彼女は無事なのだと。
―――後は、本人の気力次第だとも。
「トシ!総悟!なまえちゃんは……っ」
「手術は成功しやした。あとはなまえの意識が戻るのを待つだけでさァ」
「!!……そうか、良かった……。 こっちも被害者は全員無事に保護出来た。犯人の身柄も、見廻組に任せてあるから安心してくれ」
時刻は午前二時。なまえが集中治療室に運ばれた後のこと。 集中治療室の扉前にある長椅子にぼんやりと腰掛けていた土方と沖田の元へ、近藤と数人の真選組隊士が駆け寄る。
彼女の無事を確認し一同胸を撫で下ろしたが、暗い表情の土方に首を傾げた。
「トシ……どうかしたのか?」
「………………アイツ、血まみれで……体もすげぇ冷たかったんだ……」
「…………」
「一歩遅けりゃアイツは………………なまえは……っ」
グッと拳を握る土方の腕が小刻みに震える。
感情を抑えるような土方のその様子に、なまえが如何に危険な状態だったのかを察した隊士達がゴクリと唾を飲み込んだ。
そんな緊迫した空気を沖田は溜め息ひとつで一掃すると、飄々とした様子で近藤を仰ぎ見た。
「……佐々木殿は来てないんですかィ」
「あ、あぁ……返り血やら何やらで、あまりにも酷い状態だったからな。一度、屯所へ戻るよう促したんだ」
「あの状態じゃ仕方ねぇか……」
目にした惨状を思い返し、沖田は素直に頷いた。 その、不自然なくらいに普通な様子の沖田に、近藤の胸に不安が渦巻く。何か……良からぬことを考えているのではないかと。
―――佐々木がしたことは確かに許し難い。
けれど、彼に想いを寄せるなまえのことを考えると、二人を引き離してしまうようなことはしたくないとも思う。 断言は出来ないが……佐々木もまた、なまえに想いを寄せているような気がしてならないのだから、余計に。
「……総悟。その、佐々木殿は……」
「なまえを助けようとしたのはわかってまさァ。ただ、事の発端はその佐々木殿のふざけた計略……なまえに傷を負わせた罪の重さは、自分が一番良くわかってんだろィ」
「確かにそうだが……しかし、彼だって……」
「近藤さん、あんまり佐々木殿の肩を持たないほうが良いですぜ。土方さんの殺気がさっきから滲み出てて恐ぇのなんのって……あ、これ別にダジャレとかじゃないんで」
沖田の言葉にハッとして土方を見遣る。 俯いている為、表情はわからないが……彼をまとう空気が、酷く冷たいものへと変化していた。
堪らず、口を閉ざす。
この、誰も寄せ付けないような刺々しさ……これは、まるで―――
(“バラガキ”じゃねぇか……)
これ以上、彼を刺激しないほうが良い。 そう考え付いた近藤は、キュッと固く口を結んだ。
「ま、俺が今一番会いてぇのはあの悪趣味なロリコン野郎ですがね。
近藤さん、あの死に損ないの処罰ですが……もしも拷問に掛ける予定があるなら、その時は即刻俺を呼んで下せェ。血反吐に排泄物、その他諸々……出せそうなモン全部吐かせてやりまさァ」
ぎらぎらと瞳を光らせた沖田が無表情で呟く。 あぁ、こっちはこっちで手が付けられないほどに殺気立って……と、近藤は悩ましげに頭を抱えた。
しかし、沖田の言う通り、あの逃げ延びてきた天人の男には厳しい鉄槌を下すことになるだろう。
「……うっかり手元が狂っちまうかもしれやせんが」
「ちょっ……頼むから程々にしてくれよ?!許可無く犯人を死なせるなんてことしたら、お偉いさん方に何て言われるかっ……「その心配はいらない」……は?」
二人のやり取りを制止させたのは、呟くような小さな……けれど、迷いの無い凛とした女の声。
声のした方を見遣り、沖田は目を細めた。
「……どういう意味でィ」
「そのままの意味。うっかり手元が狂っても、別に構わない……幕府は何も口出し出来ない立場だから」
音もなく現れた今井信女に、真選組の面々の目付きが鋭くなる。 彼らから注がれる殺気に少しも動揺することなく、信女は尚も言葉を続けた。
「あの天人は元々、幕府の設ける医療部隊と通じていた。奴らの花から採れる蜜は、強力な麻酔と同等の効果を持っていたから……でも、
あの花の花弁を乾燥させた物は麻薬と同等……場合によっては、それ以上の効果を得ることが出来るとわかってから、幕府はそれを自分達へ渡すよう交渉した」
「幕府が?!交渉って一体……」
「……交渉の内容は、“身寄りの無い少女”との交換」
「なっ……!」
淡々と語られる衝撃の事実に、隊士達がどよめく。 こんな非人道的な交渉……十中八九、幕府中枢を握る天導衆の策略だろう。
水面下でそんなやり取りがあったとは……沸き立った悔しさや憤りに、近藤はギリッと奥歯を噛み締めた。
「おいおい……そいつは、ちょいとオカシイんじゃねぇか。
あの変態野郎が幕府から大好物の生娘をもらってたとして……だったら何で、誘拐なんてリスクの高ぇことしたんでさァ」
「そんなの簡単なこと……幕府は頃合いを見て奴らを切り捨てただけ。自分達が麻薬を横流ししていたことが世間に知れたら……どうなるかぐらい、アナタ達でも想像がつくでしょ」
「足が付く前にお役御免ってか……そりゃあ手元が狂っちまった方が都合が良い訳だ」
あまりの愚行に沖田の口元に笑みが浮かぶ。
そういうことなら、こちらにとっても都合が良いというもの。 なまえを誘拐した犯人の生き残り……彼をどうしようと、誰にも咎められることはないのだから。
さて、一体どう痛め付けてやろうかと沖田が物騒な考えを頭に巡らせた時。隣に座っていた土方がふらりと立ち上がった。
突然のことに、皆の視線が彼へと集中する。
「急にどうしたんです、土方さん。厠ですかィ」
「…………奴の所へ行く」
「おい、トシ……まさか……」
「手元が狂っちまっても、別に構やしねぇんだろ?どうせ奴は地獄行きだ。 ……だったら、俺の手で地獄の底まで堕としてやらぁ……!」
その表情は、まるで鬼のようだった。 ……いや、“鬼”そのものだった。
目を血走らせながら、ゆったりとした足取りで歩みを進める土方に、誰ひとりとして声を掛けることが出来ない。それほどの気迫。
皆が顔を強張らせる中、対面する信女だけは、表情ひとつ変えずに立ち尽くしていた。
殺気を纏った土方が彼女の横を通り過ぎようとしたその刹那、信女が鞘に納めた状態の刀を横に突き出し、彼の行く手を遮った。
「……邪魔するんじゃねぇ」
「行っても無駄よ」
「無駄かどうかは俺が決める」
「行ったところでアナタは何も出来ない。それとも……死人を拷問に掛けるつもり?」
「なんだと……?」
―――“死人”。 信女は確かにそう言った。
だとしたら、あの天人の男は、もう……。
「…………佐々木が殺ったのか」
「いいえ、異三郎は何もしていない。あの男が勝手に死んでいったの」
信女の言葉に近藤が思い出す。 僅かだが自分達が調べ上げた、あの天人の情報を。
「っ……トシ、彼女の言うことに嘘は無い。奴らについて、俺達も調べたと言っただろう」
「……あぁ」
「奴らは、あの花を育てているせいで僅かな間にしか地球にいられない。 期間は新月から満月までのおよそ二週間……今日、いや、昨日が地球にいられる最後の日だったんだ。
………………しかし、変だなぁ。明朝までは地球にいても問題無いはずなんだが……」
顎に手を当てて考え込む近藤を尻目に、土方は小さく舌打ちして壁にもたれ掛かった。
犯人の死因など、どうだって良い。行き場の無くなったこの怒りを、一体どう処理すれば良いのか。
『……土方さん。気持ちが落ち着かない時は、甘いものが一番ですよ!』
ふと、苛立つ土方の脳裏に浮かんだのは、怒りの感情で霞んでしまっていたなまえの笑顔。
……あぁ、そうだ。 お前が目を覚ませば、それで良い。
それだけで良いんだ。
「………………ごちゃごちゃ考えててもしょうがねぇ…………帰るぞ」
「は!?お、おいっ……なまえちゃんの傍にいなくて良いのかよ?!」
「なまえは暫く集中治療室で過ごす。その間、外部からの接触は一切禁止だ。……それなら、終日医者の目が届く場所になまえがいられる今は、今後の為に俺達も一旦態勢を整えるべきだろう」
「……それは、確かに……けど、誰かしら傍に付いていた方が……」
「心配しなくとも、そいつが扉の前からへばり付いて離れねぇよ。自分の上司ほっぽらかして、此処に駆け付けるくらいだからな」
未だ刀を突き出したまま立ち尽くしていた信女を呆れたように見つめる。 冷静そうに見えるこの女も、なまえの安否が気になって仕方がなかったのだろう。
「なまえは無事だ。手術も成功した。さっきも言ったが……暫く、アイツは集中治療室で過ごす」
「…………」
「俺達も交代制で様子を見に来るが……今日は一度屯所へ戻る。今日一日なまえのこと、頼んだ」
自分を見る土方の瞳に殺気が無くなったのを確認し、信女は漸く刀を下ろした。
「異三郎ももうじき来ると思う。何か言付けがあれば伝えておくけど」
「言付けだぁ?んなもん…………、
……胸倉掴んで直接言うからいらねぇよ」
颯爽と歩き始めた土方に、隊士達が焦るように付いていく。 残された信女、近藤、沖田の三人は、自然と彼らが去っていった方向を見遣った。
「…………土方さんは血気盛んでいけねぇや。近藤さん、行きやすぜ」
「あ、ちょっ……総悟まで!?すまないが、なまえちゃんのこと頼んだぞ!」
少し遅れて、溜め息混じりに呟いた沖田が歩みを進め、近藤が慌てて後を追っていく。 バタバタと忙しない足音が遠ざかり、薄暗い廊下に深夜の静寂が戻る。
「…………なまえ……」
知らず知らずのうちに呟いた名前に、信女の心が震える。
出会って間もない……けれど、自分を躊躇うことなく受け入れてくれた大切な…………大切な友人。 彼女の回復をただただ祈りながら、信女はそっと睫毛を伏せた。
((なまえ……お願い、早く、))
((……………………早く、目を覚まして……))
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