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▼ 妊娠する話

※いろいろ注意してください。幸せではないです。



どうしよう。手が震えて、眩暈がする。くっきりと現れてしまった線が現実のものだと信じることがどうしてもできず、震える手でそれを放り投げた。どうしたらいいのかなんてひとつも浮かばず、カラカラに渇いた口からは、どうしよう、どうしよう、とそれだけがしきりに漏れだした。動揺して頭がうまく働かないけれど、このままではいけないということだけはわかる。放り投げたものを拾って、座り込んでしまっていたトイレから飛び出した。わたしの手に握られていたのは、くっきりと線が刻まれた、いわゆる妊娠検査薬だった。つまり、陽性反応。わたしの望みとは逆の反応を示したこれをバレないように始末しなければならない。そして、一刻も早く、ここから離れなければ。おそるおそる下腹部を撫でるが、そこに新しい命が宿っているという実感は全くなかった。だけど、本当にこどもが出来たのなら、ここにいてはいけない。相手なんて考えるまでもなくひとりしかいないのだ。五条に、知られるわけにはいかない。とりあえず荷物をまとめて家を出て、産婦人科を受診しなければ。硝子ちゃんに診てもらえばいいのではないかと頭を過ったが、どこから五条に話が漏れるかわからないからその選択肢を選ぶことはできなかった。硝子ちゃんを信用してないわけじゃない。だけど、呪術師という界隈はひどく狭いのだ。硝子ちゃんが言わなくても診てもらったことが他の人の口から広まっていくことは考えられる。五条に知られないようにして五条から逃げるには、全てを捨てる覚悟が必要だった。

「……ごめんね、ちゃんとわたしがひとりで守るから」

堕胎なんて、一瞬も考えなかった。だって、好きな人とのこどもなのだ。本当は、五条に伝えるべきなのだろう。でも、なんて言えというのか。わたしと五条は、付き合ってるわけじゃないのに。五条に伝えて、もしおろせと言われたら、きっとわたしは耐えられない。ごめんなさい。あなたが生きていることを望んであげられるのが、わたししかいなくて。わたしのこれまでの行いに、あなたまで巻き込んでしまって。夜蛾学長の配慮で事務員にしては気持ち多いお給料をいただいていること、そしてわたしなんて比ではないくらい稼いでいる五条といる時はお財布を出すことがなかったこと等が幸いして、それなりに貯金はあった。夜蛾学長には恩を仇で返す形になってしまうが、小さな命を守るためには仕方がない。いつか、きっと恩を返します。いくら貯金があったとしても、さすがにホテル暮らしを続ける余裕はないのでどこか住むところを見つけなければ。そしてバイトでもなんでもいいから働くところを見つけて、とやらなければならないことを並べ立てて、必死に自分を奮い立たせた。伊地知くんならスマホのGPS等から位置を割り出すことも可能かもしれない。そう思って、電源を切ったスマホはアパートに置いていくことにした。荷物すべてを処分して解約を待って出ていくほど、今のわたしには余裕がないので、アパートの解約はあとで電話をして、お金がかかってもいいから部屋のなかのものをすべて処分してもらおう。必要最低限の荷物をまとめて、部屋を出る前にこれまで自分が生活してきた部屋を見回した。五条は、わたしを探すだろうか。きっと探しはするだろう。五条にとって、わたしは五条の大事なものを象徴する存在なのだ。それでも、見つかるわけにはいかない。五条よりもこの子のために生きると、たった今決めたのだから。


* * *


高専の目から隠れながら生活を始めて、1ヶ月ほどが経過した。全国の窓の情報や呪いが発生しやすいポイントなど、これまでの仕事で得た情報を活かせば、逃げることはそう難しいことではなかった。きっともう、五条はわたしを諦めただろう。執着心だけで追いかけ続けられるような男ではない。日雇いの仕事で稼ぐのも限界があるので、そろそろ定住する場所を決めてもいい頃かもしれない。そう、思った時だった。

「見つけた」

突然がっしりと掴まれた腕。耳に馴染みがありすぎる声。ここにいるはずがない、五条悟が、そこにいた。

「…………は、はなして」

ぐいぐいと一生懸命腕を引っ張っても、それより強い力で掴まれていて逃げられない。あまり暴れて転んだりしたら、お腹のこどもがどうなってしまうかが怖くて、力一杯の抵抗も出来ないままどこかに引っ張って連れていかれる。力一杯抵抗したところで、五条相手ではなんの意味もないだろうけれど。乗って、と見覚えのある車の後部座席のドアを五条が開けて、中に押し込まれる。運転席には伊地知くんの姿があって、助けを求める前に五条が伊地知くんに外に出ているように指示をした。殺気だった五条の指示に伊地知くんが逆らえる訳もなく、車の中にはわたしと五条のふたりが取り残されてしまった。

「一緒にいるって言ったのはなまえだろ」

感情の感じられない声だった。背筋を冷たいものが走ったような気がして、身を縮ませる。そう、わたしだ。わたしが自分で選んで、五条のそばにいた。だけど。新しい命が宿っている自分のお腹。今までずっと言えなかったことを、口にする勇気をくれている気がした。

「……もう、やなの。五条と一緒にはいられない」

それがわたしの本心なのかは、自分でもわからない。だけどこの子のためにはこうすることが一番であると、そう思った。狭い車内でわたしに覆い被さろうとしている五条を押し退けるために手に力を入れた、その時だった。

「僕のこどもを身籠ってるのに?」

なんでそれ、と呆然と呟いた。誰にも言ってない。産婦人科に受診した時だって、足がつくのを恐れて保険証を出さず全額自己負担で済ませたのに。ガタガタと身体が震え出した。わたしは、一体どこでミスをしたのだろうか。五条は目隠しをとって、蒼い瞳でわたしの顔を覗き込む。口元は、緩やかなカーブを描いていた。

「むしろ、なんで僕が知らないと思ってんの?」

お腹を撫でられて、咄嗟に五条の手を払いのけ守るようにお腹を抱える。

「大体さ、いつもなまえが僕に避妊しろってうるさいくせに、なんでデキたのか疑問に思わなかった?」

「………………待って。まさか、」

逃げるのに、この子を守るのに必死で、そんなこと少しも考える暇がなかった。だけど、確かにわたしには、そんな覚えがない。そもそも検査薬を買うまで、こどもなんて考えもしなかったのだ。五条と結婚なんて最初からできると思ってないから、避妊だけはしっかりしてほしいとずっとお願いしていた。五条だってできてしまったらめんどくさいと思っていたのか、文句を言うことはなかったはずだ。なまえ、と五条の声が先ほどとはうって変わって甘い色をまとってわたしの名前を呼んだ。

「逃げたりしなくても、堕ろせなんて言わないよ」

僕のことをなんだと思ってんだよ。ころころと表情が、声色が変わっていく五条の目は、ずっと変わらずわたしを射抜いている。人の命を、なんだと思ってるの。掠れてしまった声で、五条に問いかけた。だって、五条はこどもが欲しいわけじゃない。ただ、わたしを繋ぎ止めるだけの手段としてこの子を用意したのだ。ごめんなさい。やっぱり、ちゃんと生きていてくれることを喜んであげられるのはわたししかいなかった。そしてわたしには、何度見つかってもなお、すべてを振り切って逃げるだけの強さはない。すべては五条がここまでわたしに執着していると気づけなかったわたしのミスだ。

「ずっと一緒にいよう」

ぽろぽろと涙が零れ落ちる。もうわたしには選択肢なんて残されていない。これまで築き上げたものを、全部捨ててきたつもりだったのに。大切な友達でさえも。そういう覚悟が一瞬で無意味で無価値なものに変わってしまった。

「…………きらい。五条なんて、だいきらい」

「僕はなまえのこと、愛してるよ」

ずっと聞きたかったはずの言葉だったのに、今はわたしとこの子を縛り付ける重くて太い鎖のようだった。


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