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五条悟がわからない
わたしがずっと生きてきた世界では、五条悟といえばみんなその能力も、人となりも瞬時に頭に浮かべて畏怖や尊敬、嫌悪といった感情を浮かべる存在だった。その五条と親しくしていたわたしは、彼の知名度の高さに巻き込まれて好奇の視線に晒されることが多かった。でも今、わたしの世界では五条悟の名前を出したところで、みんな一様に首を傾げて、有名人?と聞いてきたり、知らないなあ、と答えるだけだ。これだけギャップがあると精神的な寒暖差で風邪を引いてしまいそうになるが、これでわたしも五条から解放されたということなのだろう。同時に、五条もわたしから解放されたのだ。お互いにwin-winといえる結末。ただ少し、わたしが、寂しいだけだ。

「みょうじさんもう上がっていいよ」

定時を少し過ぎた頃、上司にそう告げられて、返事をして席を立つ。お疲れさまでした、とフロアに聞こえるように挨拶をするとまばらにお疲れ、と返ってきた。わたしがこの会社に入社して、そろそろ3か月が過ぎようとしている。これまで呪術師として生きてきたせいでまともな職歴もないわたしを雇ってくれた貴重な会社だ。幸い人にも恵まれているし、きっとわたしはこのままなんとなく、ここで生きていくのだろうと思っている。電車に乗って自宅に帰り、鍵を開けて家に入ると、玄関からひとつ扉を挟んだわたしの部屋からは明かりが漏れていた。朝、電気を消すのを忘れてしまったのだろうか。以前よりも給料が下がってしまったのだから、気を付けなければならないのに。ため息を吐きながら扉を開いて、固まる。

「……なんでいるの」

「おかえりー、なまえ」

仕事の時は目隠しで上げられている銀色の髪はぺたんと下ろされていて、目元だけはサングラスで隠れている。それでもへらへらと軽薄そうな表情をしているのがよくわかった。わたしがここに引っ越した時に買った1.5人掛けのお気に入りのソファに座って30インチほどのテレビを見ている五条悟が、そこにいた。

「わたし鍵閉めてたよね?」

「ちゃんと確認しないと危ないよ?女の子の一人暮らしなんだから」

「うっそ!いつも鍵閉めた後に確認してるのに!」

「うん。ちゃんと閉まってたけどね」

なんだこいつ。イラァ…とフラストレーションが溜まるのを感じた。ていうかもしわたしが鍵を閉め忘れていたとしても、勝手に上がり込んで我が物顔でくつろいでいていい理由にはならない。でも五条相手にそんな一般常識をいくら説いても何の効果もないことは学生時代からの長い付き合いでよくわかっていた。一度全てを飲み込んで深呼吸をした。落ち着けわたし。

「それで?何の用?」

「えー用がないと来ちゃダメ?」

「少なくともアポなしで勝手に人の部屋に入り込むのはどうかと思う」

「僕となまえの仲じゃん」

「親しき仲にも礼儀ありっていうでしょ」

だめだ。全然飲み込めていない。五条は何がおかしいのか、わたしの反応に対してゲラゲラ笑っている。数か月前まではよくあることだった。まだわたしが呪術師だった頃、高校生の時から一緒にいた五条とは周囲から交際を疑われるくらい一緒にいたし、誕生日もクリスマスもバレンタインも、恋人と過ごすための行事はすべて五条と過ごしてきた。観たい映画があったら五条に言えばついてきてくれたし、なんなら言わなくても察してチケットをとってくれることだってあるくらいだった。その延長でお互いの部屋の行き来というのも多く、合鍵を渡していたから任務が終わって帰るとわたしの部屋で五条がテレビを見ていることもしばしばあった。それでも、わたしと五条は恋人ではないし、男女の関係になったことは一度もない。

「なまえは寂しがりやだから、そろそろ僕が恋しくて泣いてるんじゃないかと思って」

「残念でした。この通りぴんぴんしてます〜」

どかり、とど真ん中に座っていた五条を端によらせてスペースが空いたソファに腰をおろす。今まで呪術師としてしか生きてこなかったけど、一般人としての生活もなかなか楽しいよ、とわたしの口はぺらぺらと勝手にしゃべりだした。

「きっとそのうち好きな人ができて、一般人の男の人と結婚して、子供産んで、そしたら呪いのことなんて忘れていくんだよ」

今から半年ほど前、任務の中でわたしは大怪我をした。命には別状なかったものの、後遺症でそれまで知覚できていた呪いが、視えなくなってしまったのだ。戦えなくなってしまっても、視えるのならば窓として働くことだってできた。でも、特出する才能がないわたしには、視えないまま戦うというのはあまりにも無謀で、窓としても働けないのならばもう呪術界に残ることはできなかった。今までずっと生きてきた自分を捨てなければならない。それはわたしにとってひどく残酷なことだった。本当は心のどこかで思っていたのかもしれない。五条が、なんとかしてくれると。ずっと一緒にいたのだから、わたしがいなくなったら五条だってきっと寂しいはずだ。だから、視えなくてもそのまま、呪術師として生きる道を五条が提示してくれると思っていたのだ。

「いいんじゃない?そういう世界でも、なまえなら生きていけるよ」

僕は寂しいけどね、とサングラスで目を隠したままテレビから視線を外さない五条が言った。

「寂しい?五条が?」

「そりゃそうでしょ。ずっと一緒だったんだから」

まるでわたしがおかしなことを言っているかのような反応だった。どうしてそんなことを言うの。わたしが呪術師を辞めた時、引き留めもしないで笑って見送ったくせに。あの時わたしが、どれだけ絶望したか、知らないだろう。どんな形であれ、わたしは五条の特別だと思っていた。付き合っていないけれど、わたしは誰よりも五条に近くて、五条に大切にされているのだと思っていたのだ。わたしとは次元がちがう特級呪術師の五条と並んで歩くことを許されていたのがうれしかった。誇らしかった。五条の、好きな人のそばに、ずっといたかった。あの時、呪術師を辞めた時、わたしはそれまでの自分の世界を失った上に、五条の隣を歩く権利も失ってしまったのだ。

「……今まで、来なかったじゃない」

「忙しかったし、なまえも慣れない環境で大変かと思ってね」

「ねえ五条、何がしたいの?」

あっさりわたしの手を離したくせに。どうして会いに来るの。もう会わない覚悟だってしてた。硝子をはじめとした友人たちとは連絡をとることもあるし、これからも飲みに行ったり遊びに行ったりと、時折交流があるかもしれないけれど、五条とは、あれで最後だと思っていたのだ。いつもの目隠しをして、ひらひらとわたしに向かって手を振って。元気でね、となんでもないことのように言った最後の日。引っ越したばかりの家で、わたしがどれだけ泣いたのか、知らないくせに。五条に問いかけるわたしの声は、そういった感情を乗せないようにしたせいで、ひどく平坦で、冷たいものだった。もう五条と一緒にいたくない。これ以上傷つくのは嫌だ。すべて、綺麗な思い出のまま持っていたい。五条の顔が見れなくて、興味もないバラエティ番組が流れているテレビをぼんやりと眺める。2人掛けよりも小さいソファで、だらんとぶら下げたままのわたしの手に、五条の手が触れた。そして確かめるように指を絡めて握られる。

「僕はね、なまえに誰よりも幸せになってほしいと思ってるよ。だから呪いが視えなくなった時、少し安心した」

なまえは弱いしねぇ、と余計なことを付け加える五条に、うるさい、と抗議の意味を込めて絡められた指に力を込めた。幸せになってほしいと言うくせに、わたしの幸せがなんなのかわかっていない五条は酷く滑稽に思える。たとえ力のないわたしが早死にしようと、それが五条のそばであればわたしは幸せだったのに。呪術師の死には後悔がつきまとう。だけど、そんなの普通に生きてたって、自分がいたい場所にいられなかったら同じじゃないか。

「戦えないなまえを僕の近くに置いたら、上層部の腐ったやつらに絶対いろいろ言われるし、だったら一回外に出しちゃった方がいいと思ったんだけど」

離れてすぐ別の男と結婚する未来の話されるのはさすがに寂しい、なんて。それじゃまるで、わたしの身を案じて送り出したように聞こえてしまう。確かに五条は上層部としょっちゅう揉めるし、それを自分の実力を正確に理解した上で脅したりして解決するから、上層部の頭痛の種であることは間違いないだろう。戦えず、窓にもなれないわたしが五条に庇護されていたら、五条にやり込められた上層部の矛先がわたしに向きかねないことも想像に難くない。だけどこんなの、好きだと言われているようじゃないか。

「……なんで、わたしに何も言わないでそういうことを勝手に決めていくの?」

「まあ、わかってると思ってなまえに何も言わなかったのは僕のミスだね」

かちゃ、と音を立ててソファの前のテーブルに五条のサングラスが置かれた。もう、五条の特別な目を隠すものは何もない。言ってくれなきゃ、わかんない。小さくかすれた声でそう言うと、絡んだ指が軽くわたしの手をくすぐり、五条の綺麗な顔がわたしを覗き込んだ。

「どこにいても、一番近くにいなくても、僕がなまえに会いに行く」

もっと早く言ってよ、とか、いつもぺらぺら余計なことまでしゃべるくせに肝心なところで言葉が足りないとか、わたしの気持ちを聞いてない、とか、まだまだ文句はあったけど、それはすべて五条の唇に飲み込まれていった。わたしは思っていたよりも、この面倒な男に愛されていたらしい。