なにもいらない、と彼は思った。地位も名誉も財も要らない。豊臣のために生き、豊臣のために死にたい。彼の望みはそれだけだった。彼の刃は矛盾がなかった。真っ直ぐな一貫性を持っていた。刃の下では命は全て等価値だった。生と死は同じだった。子供も老人も獣も。彼自身でさえも。赤い流血はいつだって彼を裏切らない。何もいらない。だから、何もなかった。そのはずだった。



裏庭の木戸をそっと押して自邸に帰った。深夜である。月明かりで案外空は明るい。簡易な閂を掛け、少し枯れてきている柔らかい草が生えた庭を静かに歩く。しばらく歩を進めると、地に打たれた杭に、長い紐で繋がれた飼い犬が見えた。伏して眠る黒い犬の耳がかすかに動いたかと思うと、むくりと起き上がった。犬はつぶらな瞳を潤ませて、ピスピスと鼻を鳴らして足元に寄ってくる。戯れに左手で頭を撫でてみると、くぅんくぅんと鳴いた。手早く草鞋を脱いで濡れ縁に上がる。足音を消して奥へ奥へと進んだ。突き当たりの室の襖を細く開く。誰もいなかった。もしやと思い東の方へ足を向ける。普段共寝の場として使っている室の前で、三成は足を止めた。静かに障子を開く。月明かりが膨らんだ布団の上に薄く線を引く。するりと侵入し、板敷きの床の上にゆっくり膝をついた。がちゃがちゃと具足が音を立てる。起きるかと思ったが、穏やかな寝息は規則正しく続いていた。布団の端から手が飛び出している。手元に何かの本があった。油の切れた灯台が隅に置いてある。

「………」

三成は刀を床に置いた。紫色の下げ緒が女の髪のように広がる。左手でふっくらとした頬にかかる髪を払う。ついでにちょっと頬を突いてみる。布団の中の彼女はむにゃむにゃ言うだけだった。穏やかで警戒心のない、無防備な寝顔だった。何か、未知のあたたかいものが胸のあたりに広がっていくような気がする。血の巡りが良くなって、冷えた指先も温められるような。主君に思いがけず労られたときの喜悦とか、戦運びが上手くいったときの高揚とは違う。不思議だ。月世は不思議だ。何か自分の役に立つとか、豊臣の利益になるというわけでもないのに、傍に置いておくことが三成のなかで当然のように決まっている。
どうしても小さい手が掛布から出ているのが気になって、三成は恐る恐る月世の手首を左手で掴む。力の抜けた手を布団に押し込むと、薄い瞼が震えた。とろんとした目が彷徨い、三成を見つける。

「……みつなりさま…」
「いい。起きるな。寝ていろ」

左手で月世の両目を覆う。今の自分の姿をあまり見られたくなかった。汚れないように気をつけたつもりだが、避けきれなかったものがあるかもしれなかった。月世は聞き取れない言葉をふにゃふにゃ言って、すぐに眠ってしまった。三成は左手を離す。突然ひどく虚しくなる。彼は右手にちらりと視線を向けた。べったりとついた返り血に眉を寄せる。夢のようなあたたかい寝床には不似合いなものだった。それくらいは情緒の乏しい彼にもわかる。三成は城に行くために腰を上げた。



太閤の御膝元、大坂城下は至極賑わっていた。天高く、馬肥ゆる秋。様々な人間が、茶屋の店先で緋毛氈のかかった台に腰掛け、ぬるい茶を啜る佐助の視界を行き交う。きっと今の佐助は小綺麗な薬売りのように見えているだろう。足元に置いた木箱の中には、仕事の片手間に作った薬や小物が詰まっている。昼頃に露天を開いたらよく売れた。いい小遣い稼ぎになった。葦毛の馬の揺れる尾に、主の後ろ姿を思い出す。土産に団子でも買っていくかな、と被った笠の縁を弄りながら佐助は思った。南方の偵察の帰り道だから、少しばかり気が緩んでいる。ここに来たのはついでのようなものだったが、大坂城に女中として紛れ込ませている部下から気になる話を聞いたので、なんとなく発ちがたいのだ。
曰く、『凶王三成はツキを飼っている』。

(ツキ、ねぇ…)

石田三成。凶王三成の異名を持つ豊臣の犬。あまりいい噂は聞かない。ツキ。何かの兵器だろうか。可能性は十分ある。一度本格的に調べてみたほうがいいかもしれない。手の中で空の湯飲みを持ち余す佐助の隣に、旅装の女が腰を下ろす。笠の下からちらりと見えた輪郭に見覚えがあった。

「珍しい。お前のほうから寄ってくるなんて」
「…うるさい」

艶のある金の髪が見え隠れしている。寄って来た店の娘に茶を頼んで、かすがは軽く咳払いした。

「…西のくにが豊臣に降った」
「骨がないねぇ」
「この時期に田畑を焼かれては、しかたないだろう」

同情しているのか、苦々しげな口調だった。このくのいちは優しい。

「豊家は今じゃ負け無しだもの。凶王は勝ち越しだし……確かにツキは持ってるな」
「忌々しい」

かすがが小さく舌打ちした。どんなときも彼女の美しさは損なわれることがない。いつものようにからかってやろうと佐助が口を開いたとき、視界に影が差した。

「あの、お昼にお薬を売っていらっしゃったお方ですか?」

よく通る、澄んだ声に佐助は顔を上げる。つられてかすがも視線を動かす。大人しそうな娘だった。色の明るい髪が陽光にきらめいている。良家の子女といった感じで、身なりがいい。紫色の包みを抱えている。佐助は人懐こく笑った。

「そうですよ。何かお探しですか?」
「咳に効くものがあったら、売っていただきたいのですけれど」
「咳止めですね。どれどれ…」

足下の木箱を探り、小さな包みを何個か取り出す。

「はい。食事を取ったあとに一つ飲んでね」
「ありがとうございます」

嬉しそうに少女は笑う。きっと使いで来たどこぞの屋敷の女中だろう。彼女は懐から苦労して赤い巾着を取り出し、佐助の掌に代金を置いた。一瞬触れた指先は熱かった。こどものようだな、と彼は思う。

「御方様!探しましたよ!」

どこからか飛んで来た男の声に、少女がきょろきょろと辺りを見回した。小走りでこちらに向かってくる男が一人。帯刀している。佐助はさり気なく笠を下げた。かすがは素知らぬ顔で茶を飲んでいる。男は荒い息を吐きながら、佐助の方をちらりと見たが、すぐに少女に顔を向けた。

「なぜ勝手に行ってしまうのですか!俺はちゃんと待っているように言いましたよね!?」
「ごめんなさい。でも、お薬を買うだけだから、そんなに時間はかからないと思って…」
「俺が殿に切り刻まれてもいいのですか!」
「まぁ、またそんな御冗談を。小幡さんは面白い方ですね」
「俺はいつでも大真面目ですよ!」

半泣きの男に対し、娘はにこにこと笑う。そろそろ行きましょうか、と涙ぐむ男に告げて、佐助に頭を下げると、娘と男は去っていた。隣のかすがが呟く。

「変な客だったな」
「そうだねぇ」


 
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