刃はいらない、と彼は思った。痛みを感じないからだ。拳がいい。殺すたびに手は痛む。皮膚が破れ、骨が折れ、血が流れる。皮肉なことに、彼の両手は刃のように強くなっていった。彼の刃はよく使い込まれていた。傷だらけで、お世辞にも綺麗とはいえない代物だったが、あたたかかった。誰かを救う両手だった。そして手際良く敵を殺す優れものだった。誰かを殺す両手だった。殺さなければ、拳は痛まない。胸はいつだって痛んだ。かなしいときも、うれしいときも。



三成と月世が三河に来たのは、収穫祭のころだった。ちょうど短い里帰りしていた家康と浜松城の人々は、この客人たちをいたく歓迎した。視察という名目で、二人で温泉にでも行ってこい、と部下想いな上司からお達しが出たらしい。秀吉様と半兵衛様のご命令だから、などとぶっきらぼうな口調で言う男の首筋がうっすら赤くなっていた。嬉しかったらしい。わかりやすい。家康は、土産を受け取り、楽しかったか?と聞いた。

「はい、とてもいいお湯でした」

月世はにこにこしながら答える。笑うとますます表情が優しくなる。土産の品は思いの外大量だった。温泉饅頭、妙な人形、煎餅、怪しげな石や薬、柘榴と通草、梨に栗に茸、などなど。縁側で包みを開く度に色とりどりのものが出てくる。その度に月世は、これはどこそこで手に入れて、こんなことがあって、などと土産話をする。たまに三成が、それは違う、とか、そうだったな、とか相槌を打つのが新鮮だった。この男が、そういう日常の細やかなところを憶えている。彼は、主と、それに付随する事柄にしか興味を持たない印象が、家康の心には深く刻み込まれていた。盆の上で、湯飲みから湯気が立っている。家康はゆっくりと通草の実を開いた。とろけた果肉が甘い。三成は柱に背を預けて梨を剥いている。月世は柘榴を食べるのに夢中なようだ。啜るくちびるが赤く染まっていく。指先が血を流したように真っ赤な果汁に濡れた。柘榴は人肉の味がするという。彼女は実においしそうにものを食べる。

「………」

柘榴は子宝の象徴だ。家康は月世の腹に目をやった。膨らみは感じられない。彼女は手の甲で果汁を拭う。白い肌がまた赤くなった。

「月世、梨が剥けた」
「あ、ありがとうございま、むっ」

小さな口に梨が押し込まれる。少女の横顔がさっと赤くなった。三成は気にせず、皿から梨を摘む。ずいっと眼前に突き出された白い果肉に思考がついていかない。

「食え」
「えっ」

問答無用で口に突っ込まれた。三成は近いときは本当に近いし、遠いときは本当に遠い。距離感がよくわかっていないのではと思う。梨は瑞々しく、大変美味だった。



月世は早々に眠ってしまった。疲れていたのだろう。視察は明日行うということにして、家康は三成を晩酌に誘った。渋る三成を縁側に引っ張り出す。

「とっておきのなんだ。うまいぞ」

酌をしてやると嫌そうにしながらも飲み始めた。三成の虹彩は月光を受けて緑色っぽくなっている。肌は蝋のようだ。つり目を縁取る睫毛も案外長い。鼻筋はすっきりとしているし、色は不健康だが、薄いくちびるは形が良い。一度開けば罵詈雑言が飛び出すそれは、大体いつもへの字に曲がっている。それでも、少なくとも家康に取っては、彼は見れば見るほどうつくしい男だった。

「なんだ」
「え」
「何を見ている」

気色悪い、と吐き捨て、三成はぐびぐびと盃を呷る。目つきがますます剣呑になる。無造作に放り出された足はしなやかな筋肉を纏っている。彼はいつも険しい顔をしている。蝋のような肌。それが溶けることはあるのだろうか。月世が三成にとっての火なのだろうか。そんなことを考えていると、三成がぼそりと言った。

「近々西へ進軍する」
「…そうか。わかった。大坂に行ったら秀吉公に伺おう」

月世には言ったのか。なぜ?と三成が小首を傾げる。目尻がつり上がった。いささか苛立ちの混じった声が上がる。

「月世には関係がない」
「あるだろう。お前の嫁御だ」

三成は口を少し開いて、閉じた。じっと黙り込む。荒れた指先が盃の縁を撫でた。家康はゆっくり笑った。

「お前の家族だよ、三成」

小さな水面に月が浮いている。家康は掬うようにして盃を呷った。



その手が欲しい。傷だらけの手をとる白い指。指先には桜貝のような薄い爪が嵌め込まれていた。柔らかくて温かそうな手。あんな手が傍にあったらなぁ、と彼は思う。そして、ふと自分の掌を見てみる。真っ赤だった。ぬるりとしている。指に何本か長い髪の毛が巻き付いている。肉片が爪の間に詰まっている。彼はそっと肩をすくめた。


 
×