くぅん、と黒い子犬が鳴いた。小さな手が、毛玉をゆっくり撫でる。どこからか金木犀の香りがする。朝から空に厚く灰色の雲がかかっているので、そのうち花は雨に流されてしまうだろう。そういえば傘を持ってくるのを忘れていた。あまり長居はできなさそうだ。官兵衛は茶請けに出されたお萩を咀嚼した。連れて来た子犬はころころと月世に擦り寄る。屋敷の床下で野良犬が仔を生んでしまったんだが、一匹ぐらい引き取ってはくれんかね。官兵衛のそんな頼み事を、月世は二つ返事で了承した。里親が見つかって助かった。獣は苦手だ。いつだって嫌われる。子犬が月世の膝の前に行儀よく座った。早くも主が誰だか理解したらしい。先程まで籠の中できゃんきゃん喚いていたくせに。噛まれた手が少し痛い。 「名前は…そうですね、黒豆にしましょうか」 「お前さん、腹が減っているだろう」 「わかってしまいました?」 「わかるさ。小生は知性派だぞ」 月世が微笑んだ。茶色の柔らかそうな髪の房が肩から滑り落ちる。偶然隙間からちらりと見えた白い首筋に赤い傷跡を認めて、官兵衛は大分げんなりした。痛むだろう。複雑な気分である。獣じみた男だな、と思う。その行為を彼女が許しているのがまた腹立たしい。 「痛みますか」 「ん?」 「眉間、皺が寄っていますよ」 丸い眼がしげしげと小さな歯型を眺める。指先がそうっと傷の近くを触った。と思ったら、半開きの明かり障子が小気味良い音を立てて四分割にされた。殺気を感じ、官兵衛は振り下ろされた白刃を寸でのところで躱した。畳に刀傷ができる。犯人が叫んだ。 「官兵衛ェエエ!!殺す!」 「なぜじゃあああ!?」 「あ、お帰りなさい」 のほほんと月世が言う。脅えた子犬が必死に彼女の膝に乗ろうとしているのを見つけて、三成の眼光がますます鋭くなった。月世の傍に胡座をかき、べりりと子犬を膝から剥がす。骨張った右手で無造作に持ち上げられた子犬がくぅんと弱々しく鳴いた。哀れだ。 「なんだこの犬は」 「三成さま、この子、飼ってもいいですか?」 「なんだと」 「黒豆というのです。あ、ちゃんと両手で…」 「む…こうか?」 凶王はなんだか和やかに子犬にかまい始めた。めまぐるしい男である。逃げるなら今だ。官兵衛はそろりと敷居を跨いだ。 「待て官兵衛、私が直々に見送ってやる」 首根っこを掴まれ、彼の目論みは失敗に終わった。見た目に似合わぬ怪力でずるずると引きずられる。子犬がまた鳴いた。 「月世に余計なことを吹き込むな」 官兵衛は草履をつっかけてから、背後の三成を見た。目つきはぎらついているし、文字通り牙を剥いている。犬かよ、と官兵衛は思う。豊臣の凶狗。犬。そんな風に彼が誹られていることを官兵衛はよく知っていたし、実際そうだと思っている。そしてそれはこの男にとって誉れなのだ。 「月世には知る義務がある。お前さんがどんな汚い仕事をしているかな」 ぴくりと三成の肩が動いた。完全に殺気立っている。左手が鯉口を切るのが見えた。すぐに抜刀しないことに官兵衛はちょっと驚きを覚えた。軍師はにやりと笑う。余裕が出てくる。こういうときに喋りすぎるのが彼の悪いくせだった。 「あのこに嫌われるのが怖いのかい」 「………」 三成は沈黙している。官兵衛は意地の悪い顔をした。そして限りない真実を言った。 「お前さんは絶対に月世をしあわせにできない」 「………」 「でもお前さんのしあわせは月世だ」 「………」 「本当はわかってるんだろう?三成。お前さんは最低な人間だが暗愚じゃあないはずだ」 「黙れ野良犬。それ以上口を利いてみろ」 地を這うような低い声だった。三成の輪郭は闇色に滲んでいる。瞳だけが爛々と輝いていた。 「さっさと去ね。殺されたいか」 「……へーへー」 引き戸を開け、外に出る。飛び石をゆっくり渡った。金木犀が香っている。 → ×
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