恋は楽しい。彼の人はそう言った。

「恋はいいもんだよ、あったかくてね。そのひとのことを想うだけで、しあわせになるんだ」
「はぁ、そうなのですか」
「うん」

彼はにこにこ笑いながら菓子を摘む。桜の似合うひとだった。肩に乗った小さな相棒が、黒く丸い眼で月世を見る。柔らかい菓子を黒文字で切り分けて差し出すと、つぶらな瞳が輝いた。小さく鳴いてそれを受け取る小猿を見てから、師匠、と月世は彼を呼んだ。彼女は彼から舞やら唄やら、たくさんのものの師事を受けていた。

「わたし、恋をしたことがありません」
「そりゃあ残念だなぁ。命短し人よ恋せよ、ってね!月世ちゃんも恋をしなよ」
「師匠は、恋をしているのですか?」

男の目が一瞬何かを帯びる。彼女がそれを理解する前に、大きな手がぽんぽんと頭を撫でた。彼の高い位置で結い上げられた髪が揺れる。

「月世ちゃんに想われる奴はしあわせだ」

師は微笑む。桜の花弁が天から降るように舞っていた。




三成はしあわせなのだろうか。

月世はゆっくり瞼を押し上げた。厩番の半介が軽く肩を揺すっている。背中に藁の感触がある。少し休むだけのつもりだったのだが、眠りこけてしまったようだ。

「月世様、そろそろ起きたほうが…」
「…すいません、…ありがとうございます…」

目を擦りながら藁の山から立ち上がる。ふあ、と欠伸をして背筋を伸ばす。ぱきぱきと骨が鳴った。半介が、随分ぐっすり眠っていらっしゃいましたよ、と笑う。百姓上がりのこの青年は、およそ姫御らしくない月世にも寛大だった。これが左近や兵庫だったら、ちょっとしたお説教をくらっているだろう。

「この頃よく眠れなくて」
「……惚気はやめて下さい…」
「え?」

薄く頬を赤くして困り果てる半介に月世はきょとんとした。身体についた藁を払い落とし、愛馬の鼻面を撫で、半介に礼を言って厩を後にする。庭から回ろうと歩を進めたところで、背後から、月世、と自分を呼ぶ尖った声がした。

「三成さま!」

ずかずかとこちらに歩いてくる三成は、なぜかいつも以上に怖い顔をしている。今日は帰りが早い。とは言っても、石田邸は大坂城の離れのような場所にあるので、移動にさほど時間はかからないのだが。がしりと肩を掴まれ、月世はちょっとびくついた。

「また勝手に出歩いたのか…!」
「は、はい」
「はいじゃない、はいじゃ!」
「でも…星来に乗りたかったんです。ああそれと、兎を四羽手に入れました。夕餉にお出ししますね」

暑さのためか、近頃の三成は食欲が全くなかった。昨日出した鰻も一口しか食べなかったので、肉を食べさせようと思ったのだ。銀の髪が、明るい日差しの中で美しく煌めいている。彼の背後で朝顔が萎んでいた。

「三成さま、暑いでしょう」

こちらへ、と上品な柄のついた白い袖をやんわり引いて木陰へ誘導する。彼はしばらく怖い顔をしていたが、諦めたように舌打ちした。まったく、と呟いて、月世の頭についた藁をとる。そのまま指先で髪を梳かれて、目の下が熱くなる。近頃の寝不足の原因はこれだった。腰にまわされた腕や、布越しにぴったりとくっついた肌、そんなものに緊張して眠れないのだ。寝苦しくはない。むしろ彼の身体は体温が低くて気持ちがよかった。大坂に来てから、自分でも不思議なほど、三成に触られることに脅えている、気がする。頭上から声が降ってくる。

「……大猟だな。射ったのか?」

こくこくと頭を上下する。そうか、と言って三成の手が離れた。ほっとすると同時に、それを惜しいと思ってしまう自分が本当に恥ずかしくて、月世はぎゅっと目を瞑った。

 
×