この身体が何一つ欠けないことを望んでいる。足も腕も、小指の一本、爪の一つ、血の一滴も奪われたくない。奪われるくらいなら先に奪ってほしい。殺される前に殺してほしい。そんなことを至極当然のように思っている。

月世は包帯を巻いた肩を撫でた。血が滲んでいる。かすっただけだと言っていたのに、右肩の肉は無残に弾けて焼けていた。かすかに見えた骨の白さと焦げ臭さを思い出す。抉れた肉は再生するのだろうか。彼女は静かに眉を顰める。

障子越しの月光に肌の白さが際立って、彼女は三成が息をしているか心配になる。かすかに肩が上下しているのを認めて、やっと落ち着く。掌でゆるゆると二の腕を辿る。青い血管の浮いた皮膚は確かに熱を持っていて、彼女をこの上なく安心させる。肘の内側を指先でなぞり、手の甲へ。

三成の手が好きだ。短く切り揃えられた色の悪い爪。ささくれがある。細長い指は節くれ立っていて、痩せている。この手の優しさを知っているのが、わたしだけだといい。月世は目を細める。硬い手をぎゅうと握る。夜明けが来たら、そしたら三成はいつも通りに浅く短い眠りから目を覚まして、肩の傷のことなど気にせず主の元へ行くのだろう。

手負いの獣みたいだった。気怠げで、ひどく鉄の匂いがして、両眼が昏い光を帯びている。どす黒い高揚の気配が濃く、仄かに発光する闇を引き連れていた。それを見たら、もう。

けだもののような血腥さのとれた手はいっそ恐ろしいほど白い。ぴくりと胼胝のできた手が動いた。夢を、見ているのだろうか。



ぱち、と小さな音を立てて、秀吉は碁石を置いた。途端に対面の少女が唸る。黒地に暗い赤の刺繍の入った打掛が畳を擦って、微かな音を立てた。その着物が自分が婚礼の祝いに贈ったものだと気づいて、秀吉は脇息にゆっくりもたれ掛かる。機嫌をとるのがうまいな、と思う。

「待ったは無しだぞ」
「これは…難しいですね」

月世はぼそぼそと泣き言を言う。困り果てた顔をしている。彼女は勝負事に弱いらしく、先日の将棋も双六も秀吉が勝っている。今日は三成に届け物をしに来たところを見つけて、甘味を出しに碁に誘った。近頃の秀吉の楽しみは、腹心の部下の妻との歓談なのだった。

「わたしには太閤殿下のお相手などとても…」
「半兵衛は強くてな。官兵衛は独特だし、吉継にはいつも逃げられる。…三成は、」

半兵衛に、似ている。低い呟きに娘が目を細めた。銀細工の髪飾りが揺れる。

「先の戦で、」

月世が白い石を置いた。鹿威しの音が聞こえる。

「急遽、徳川さまの部隊を、単独で進軍させたそうですね。…勝ち戦でしたが、豊臣の援軍はなく、徳川は大きな痛手を受けたとか」

ひとつひとつ、言葉を句切るように。表情は固い。月世が深呼吸して言う。

「試しておられるのですか」

秀吉は笑みを深くした。真実、この娘は聡い。あの純粋無垢な盲の左腕と違って。



三成、と呼びかけると、黒い肩衣の背中が歩みを止めて振り向いた。紫色の風呂敷を抱え直し、彼は家康をじとりと睨む。横に追いつくと歩き出した。

「もう肩は大丈夫なのか?」
「なんともない」

返事はそっけない。久しぶりに顔を見たが、目の下に隈ができている。抱えていた風呂敷を見つめると、月世が着替えを持って来た、とぼそぼそ言った。

「また泊まり込んでいるのか。ちゃんと屋敷に帰れよ、三成」
「うるさい、石高が合わんのだ…」
「月世が寂しがるぞ」
「茶化すな!」

戦から帰って来たと思ったら今度はひたすら右筆をしている。働きすぎだぞ、と肩を小突くと、無言で腕を軽くはたかれた。ふと、思いついて聞いてみる。

「もしかして、休みでもとるのか」

図星だったらしい。三成の動きが止まった。家康が七つ数えてから歩きだす。ちら、と横を見る。耳が赤い。家康はにこにこした。雰囲気に堪えられなくなったのか、そんなことより、と三成が声を上げる。

「先日の、勝ったそうだな」
「あ、ああ。…なんとか」
「……秀吉様が貴様を認めてくださったのだ。喜べ」

彼にしては珍しい、穏やかな声だった。家康はびっくりして隣を見た。青白い横顔の口元が、少しだけ、柔らかくなっていた。笑っている。家康は目を見開いて、それから、そっと笑った。

「…そうか。嬉しいな」

喉が渇く。嬉しさと怒りの綯い交ぜになった気持ちだった。三成、と心の中で呼びかける。
三成、三成。彼は気づかない。考えもしない。今回の進軍の意味。三河の兵が何人死んだか。…何故、秀吉が家康を彼の傍におくのか。家康はぎゅうと拳を握りしめる。石田三成。真っ直ぐで美しい、なんて愚かな豊臣の子!


 
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