月世がその男に気付いたのは、宴の中で唯一、彼が笑っていなかったからだ。彼の周りだけが、どんよりと暗く見えた。男たちが着物をはだけて踊っている。歌っている者もいる。少しはしたないが、月世から見ても面白い。けれど。

(……笑わない)

ただ明かりの届かない隅っこで、がぶかぶと酒を飲むだけである。彼女は客に酌をしながら、そっと男を盗み見た。空になったらしい酒瓶を捨てて、近くにあった銚子を握っている。気になる。非常に気になる。

水を持っていけば、と思った。飲み過ぎでしょう、などと言って。そしたら話しかけられる。そこで何か愉快なことを言えば、笑顔を、見せて頂けるかもしれない。

彼女は立ち上がった。板敷きの床に転がった徳利をいくつか拾い、早足で厨に向かう。途中手伝いの者に、月世様はいいですから、と言われたが、いいの楽しいから、と軽く制した。女中が、まったくうちの姫様は、と笑う。自分の性格を知っているのだ、諦めたのだろう。厨の水瓶から銚子に水を注ぎ、零さないように廊下を行く。庭からは春の初めのそよ風が通っている。生命の吹き出す、濃厚な土の気配がする。

壁に背を預ける男の身体が見えた。ゆらりと揺れる灯台の炎は遠く、影が濃くて顔はよくわからない。ち、という舌打ちの音が聞こえ彼女はびくついたが、ごくりと生唾を飲み、意を決して男の隣に座る。酒のものだろうか、とろりと甘い、蜜のような香りがした。

春だった。花が開き、風が薫る。やさしい季節がやってきていた。




三成が嫁を娶った。ありえん。しかも相手は月世姫。ありえん。官兵衛は溜息をついた。知らず涙が流れていた。鼻を啜る。失恋の痛手は大きかった。

彼女の父親は豊臣の重臣だ。年の離れた姉がさっさと嫁いでしまったために、父親は月世を溺愛している。嫁に出さん、婿を取る、などと言っていたのに。よりによって三成に。聞くと、刀を突き付け脅されたらしい。親父殿は娘を凶王に奪われた悲しみで、一夜にして白髪になったとか寝込んだとかうんぬん。実際には普通に登城していた。三成の噂はいつも尾鰭が付きやすい。……親父殿が少しやつれていたのは否定できないが。

それにしても憐れなのは月世だ。あんな凶暴な男に嫁ぐなど、心優しい彼女には酷だろう。三成なんぞ天君に轢かれてしまえ。

「…三成め……月世がかわいそうだ…」
「ほう、何か文句があるのか?」

後ろから聞こえた冷たい声に官兵衛はピシリと固まった。振り向く間もなく頭をわしづかまれ、硬い床に思い切り振り下ろされる。官兵衛の野太い悲鳴が佐和山にこだました。




かさかさと紙の擦れる小さな音を立てて、三成は真剣な顔で文を読んでいる。腫らした額を撫でながら、官兵衛は出された干菓子を口に入れた。静かにしていると能吏だ、と思う。軍事と行政についての長々とした書簡を読み終え、官兵衛にいくつかの質問をして、豊臣の左腕は紙を丁寧に仕舞った。考え込むように顎に手を宛てぼそりと呟く。

「…そろそろ大坂に戻らなければ」
「え、まだいいんじゃないか?」

祝言を挙げてから七日程しか経っていない。秀吉もそこを配慮して文を届けさせたのだ。官兵衛の言葉を無視し、茶を持って来た女中に、月世は何処だ、と三成が言う。

「奥方様なら出掛けられましたが」
「なんだと…?」
「プッ!もう逃げられたか!」

ひゅっ、と風を感じた。髪が少し散った。避けるのが数秒遅かったら、確実に首が飛んでいた。女中はにこやかに微笑みながらすたこらと逃げて行く。信じられない、主の悪行を止める気はないのか。頭を下げた状態の官兵衛に鬼と化した三成が言う。

「貴様ァア!斬滅する!!」
「なぜじゃぁああー!」

ひゅ、ひゅ、ひゅ、と微かな音を立てて三成が刀を振り回す。頬が切れ、着物が破れ、柱がえぐれた。障子を開け、そこでいつものように不運が訪れた。敷居に躓いて豪快に庭に転がってしまったのである。三成が刹那で距離を詰め、得意の居合を披露しようとする。青い空が目に飛び込む。いい天気だ。官兵衛がうっすらと死を覚悟した途端、可憐な声が飛んで来た。

「あわわわ、三成さま!いけません!」
「!」
「月世…!」
「黒田さま、大丈夫ですか!」

三成が素早く刀を納めた。さっと後ろ手に隠す。月世が小さな盥を持って駆け寄ってくる。後光が見える気がする。久しぶりに顔を見た。相変わらずかわいらしい。

「月世…お前さんは優しいなぁ…小生泣いちゃいそう…」
「まぁ、お顔に傷が!…三成さま、喧嘩はいけませんよ」
「…全てこいつが悪い」

苦虫を噛み潰したような不機嫌な顔で三成が悪態をつく。起き上がろうとして、官兵衛の視線が止まった。目を引いたのはほっそりとした足だった。小袖の裾が帯に挟まれて、白い足が剥き出しになっている。なめらかな肌。愛らしい膝小僧。草鞋を履いた足首のしまりに官兵衛はうっとりした。

「…眼福眼福…」
「…っ!貴様ァアッ!何だその恰好は!」
「あっ、これは…すいません。見苦しいものを」

三成が怒声を上げる。いつもより少し頬の血色がいい。月世はささっと裾を戻してしまった。もったいない。続けて三成が詰問する。

「どこへ行っていた!」
「へ?散歩ですが?」
「何だその盥は!!」
「途中でお魚を頂いたのです」
「はぁ!?」
「三成さまがお食事を食べて下さらないと相談したら、皆様が心配して…ほら、」

ちゃぷ、と水音を立てた盥の中に数匹の魚がいた。きっと湖で釣ったのだろう。月世は、おいしいですよ、と朗らかに笑って三成を見上げる。それから何かに気付いたように瞬いた。

「御髪が、」

背伸びをして伸ばした指先が三成の前髪を梳いた。軽く乱れた髪を手櫛で梳いて撫で付ける。官兵衛は目を擦った。信じられないものを見た。

「はい、もっと男前になりました」
「………」
「黒田さま、軟膏を持ってきますね。待っていて下さい」
「あ、ああ…お構いなく…」

とたとたと小さな背中が離れていくのを眺めて、官兵衛は隣の三成に目をやった。

「……三成…お前さん顔真っ赤…」
「………黙れ死にたいのか屑が…」

心なしか罵り言葉も弱々しかった。刀を握る手がプルプルと震えている。あの凶王が、小娘に骨抜きにされるとは。空を見上げる。いい天気だった。

「……若いねぇ…」
「………貴ッ様ァアアア!!」



結局官兵衛は傷だらけになったが、月世に鮎を馳走になった。帰らないと三成が刀を抜きそうだったので、泊まらず大阪に帰る。たまたま城内で会った吉継に話したら、いつもの引き笑いで爆笑していた。腹が痛いと言っていた。



天気が良かったのだ。だから、三成と月世が一緒に居てもいいかな、と。そんな気分になってしまった。不覚だ。





(110218)


 
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