帰りたい。茜はしみじみ思う。こんな派手な小袖ではなく、あの布の粗い忍び装束に着替えたい。巨大な迷路のような城より、鬱蒼とした森の中を飛び回っているほうが落ち着く。

「茜さん?」
「ああ、申し訳ございません。うまく結べなくて…」

茜ははっとして言葉を紡いだ。色の明るい髪は指通りが良かったが、赤い布が滑って上手く結べなかった。茜は端切れで少女に目隠しをする。聞くところによると、月世はどこぞの殿の若い令閨らしい。たまにふらっと現れては、仕事を手伝ったり雑談したりして去って行く。彼女はいつも微笑みを浮かべている印象がある。ちょっとしたことでも笑うので、そんな風に思うのかもしれない。

「はい。できましたよ」
「ありがとうございます」

月世の口角がまた上がる。茜は彼女から離れた。数人の若い侍女が開け放した広間に散っている。月世がそろりと立ち上がった。ゆっくりと足が動き、小さな手が彷徨う。きゃいきゃいと楽しげな声を上げて、侍女たちが囃し立てる。

「鬼さんこちら、手の鳴るほうへ」
「月世様、こっちですよ」

どうやら彼女には人の気を緩めさせる何かがあるようだ。こんなところを女中頭に見られたら夕餉抜きになってしまう、月世で最後にしよう、と茜は思う。白い手が一人の侍女の横を掠めた。きゃあっと声を上げて侍女が飛び退る。月世は彼女を追いかけて縁側の方へ行く。寸でのところで侍女が手を避けた。月世の身体がつんのめる。転ぶかと思ったが、彼女はぽすりと『何か』にぶつかって難を逃れた。侍女たちは縁側を見て顔を青くしている。茜の立っている場所からは見えない。掃除の様子を見に来た女中頭か。茜は言い訳を考えながら柱の影から出た。月世はちょうど男の胸元に飛び込むような状態になっていた。彼と、その横の姿を見て茜は目眩を覚えた。

「…三成さま?」

月世が見事に正体を当てた。

「…なんだこの騒ぎは」
「目隠し鬼よ、三成」

凶王とその友人は目配せし合った。月世は目隠しを解くのにてこずっている。ふよふよと浮く輿に乗った軍師は、そっと凶王に何かを耳打ちする。見る者を不安に襲わせる情景である。凶王はしばらく話を聞き、軽く頷いた。

「仕事はしっかりしろ」

それだけ言うと、凶王はなぜか月世の手をぐいぐいと引いて進んで行った。知り合いなのだろうか。にやりと妖しげに口元を歪めた軍師と目が合ったので、茜は慌てて目を逸らした。背筋を冷や汗が伝う。輿はふよふよと去って行く。侍女たちが緊張を解いて騒ぎ始めた。ばれているのかもしれない、早く甲斐に帰りたいなぁ、と茜は弱気になった。赤色の上司たちが懐かしい。大坂城はなかなかどうしておどろおどろしいところだ。



目隠しは随分しっかり結ばれていた。髪も数本一緒に巻き込んでしまったようで、仕方なく三成はさして器用でもない指を動かす。固い結び目に苛立って舌打ちする。赤い厚手の布は変わった結び目をしていた。

「端女のようなことをするな」
「あら、掃除は結構得意なのですが…」

三成の意図と微妙にずれたことを言う。苦労して布を解いた。中途半端に布から覗く薄い瞼が震えている。

「とれたぞ」
「ありがとうございます」

ぱちぱちと瞬きした両目が背後の三成を見た。くるりと身体ごと振り向いて、顔を覗き込んでくる。彼は目線を下に逸らす。きちんと起きている月世は久しぶりだ。最近は目を閉じた顔ばかりだったので、変な気分だった。

「お屋敷から出たことを怒ってるのですか?」
「…もうそれはいい」
「それは良かった。……そういえば、…三成さま、目を閉じて下さい」
「なぜだ」
「目を閉じたら、うんと良いことがありますよ」

さあさあと迫られる。特に支障もないので目を閉じた。ごそごそと何かを探る音がする。しばらく待っていると、口唇を撫でられた。驚き、目を開く。くちびるをなぞる月世の薬指が赤い。左手に小さな赤い貝殻があった。

「………貴様…」
「ああ、喋らないで下さい」

ずれてしまいますから、などと言う。頬に添えられた手のせいで逃げ出すのが躊躇われた。

「先程、使いに出た褒美に竹中様から頂いたのです」
「なぜ私に差す…」
「とてもお似合いですよ?」
「………」
「はい、出来ました」

指先が離れた。名残惜しい。すぐさま手の甲で拭い取ろうとしたが、両の手首を掴まれてしまった。

「勿体ないです。吉継さまにも見ていただきましょう」
「拒否する」
「あら、じゃあ家康さまに…」
「拒否する!」
「…では、残念ですが、」

わたしひとりで、もう少し。弾んだ声だった。目を細めて、本当に楽しそうな顔をしている。じぃっと見つめられて居心地が悪かった。手首から脈の早さが伝わらないか心配だ。

「もう、十分だろう」
「もうちょっと」
「おい…」
「夢で三成さまにお会いしました」

三成は月世を見た。彼女の頬は紅をつけたわけでもないのに赤い。手が離れた。そのまま顔を覆って下を向く。

「変なことを言ってごめんなさい。でも、最近お顔を見ていなかったから、」

もごもごと呟く。手が膝の上に降りた。落ち着きのない動作だった。

「やっぱり、本物の方が良いです。消えないし、触れます」

夢の中の自分は消えたらしい。月世の両手は膝の上から動かない。右手の薬指がほんのり赤い。目の下も赤い。血糊とは違う、なんて鮮やかな。三成は手を畳についた。吐息が交わる距離に顔を差し出してやる。

「もう触らないのか」
「………か、顔が近いのですが…」

鈍い女だ。埒が明かない。軽くくちびるを押し当てる。色が移った。赤い。なんとなく潤んだ瞳と目があう。

「似合うぞ」
「え?」



なにもいらない。でも、この女にあたたかい寝床を与えたいと思う。夢のような寝床に、ずっとふたりで。





(120411)


 
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