金色の、重たく実った稲穂が揺れている。どこまでも続く豊穣の金色の中で、人々が点々と蠢いている。家康は深く息を吸い込んだ。秋の爽やかな風に、土と草の匂いが撹拌されている。実りの香りがした。穏やかに流れていく雲の切れ間から、光が薄く降り注ぐ。

「今年は豊作だな」

聞き慣れた低い声に顔を向ける。戦装束を纏った三成が畦道に立っている。青白い横顔は汗一つかいていない。

「ああ。今年は治水も上手くいったし、天候にも恵まれたからな。良い事ばかりだ」

三成の目は遠くを見ている。何か見えるのか、と聞くと、向こうに変な案山子が立ててある、とぽつりと言った。目を凝らしたが、家康には何も見えなかった。子供の笑い声がする。稲穂の向こうで、役人の一人がこちらに手を挙げた。

「石田様」
「今行く」

三成はよく通る声で応え、素早く畦道を辿って男達の元へ向かう。その痩せた背中に、家康はひっそり息を吐いた。彼はがしがしと後頭部を掻いた。ピーヒョロロロ、と鳶の鳴き声が響く。今朝見た夢のせいで落ち着かない。これは癖のようなものだ、と家康は思う。どうやら自分は人の妻であるひとに妙に惹かれてしまうようで、これまでも何回かこんな経験があった。だから違う。だって月世とは三成と婚姻する前に交流があった(顔を合わせた程度だったが)。初めて会ったときは、父親似な娘子だな、とか、月並みな感想しか浮かばなかった覚えがある。うん、と家康は腕を組んで力強く頷く。月世のことは気の迷いだ。友人の細君に想いを寄せるなどあってはならない。彼はにっこり笑った。

「気の迷いだな!」
「何がですか?」

澄んだ声が背後でして、家康は笑顔のまま飛び上がった。動悸が激しくなる。なんとか平静を装って振り向くと、月世が立っていた。結い上げた髪が揺れている。

「い、いや、なんでもないんだ」
「そうですか……悩み事でも?」

今日は袴を穿いている。小さな手が少し泥で汚れていた。袖をたくしあげていた襷を外し、家康の隣にやってくる。

「…悩み…」
「微力ながらお手伝いできるかもしれません」

安心感のある声だ。彼は戸惑い、そっと拳を握る。ぽろりと口から言葉が出ていた。

「…見たい景色がある」
「そうなんですか。そこはどこに?」
「……遠いところなんだ。そして、そこに行くまでにはたくさんの障害がある。…たくさんの犠牲を払わなければならない」

たくさんのものを奪わなければならないんだ。たくさんのひとを傷つけることになるんだ。心の内で呟く。月世は目をぱちぱちさせた。思慮深い瞳が家康を見上げる。

「迷っておられるのですか?」
「……どうなんだろうなぁ…」

はぐらかすと、月世は、そうなんですか、と囁いた。小さな手が金の稲穂を手に取る。その横顔の穏やかさといったらない。

「三河はよい国ですね。とても潤っていて」
「……そうかな」
「はい。住み良いところだと思います」

唐突に言われた言葉になぜだか頬が熱くなった。すぐに返答ができない。口をもぐもぐさせて、やっと声が出た。

「……そう、だろうか…」
「ええ。ここは本当にうつくしい国です」

右耳の方から飛んでくる肯定に、家康はらしくなくどぎまぎした。彼女の声音はとろけるように優しい。

「家康さまはその場所に行きたくて、こんな国をつくったんですね」
「…うん」
「すごいことです。理想を叶えたのだから」

その意思で、願いで、望みで、祈りで、家康はこの黄金の都をつくった。焼けぬ田畑が欲しい。誰もが飢えることのない、虐げられることのない、何者にも奪われない安穏が欲しい。誰もが光の元で生きる、あたたかな場所が欲しい。光を受けて月世の髪が金色に縁取られる。

「その意思の価値を、わたしは認めます。他の誰が否定しても」
「…そうか。…ありがとう」

その肯定だけで十分だった。月世はうそつきだ。三成が一番のくせに。向こう側で三成が軽く手招くのが見える。呼ばれているらしい。細い畦道を辿る。草摺に稲穂があたって忙しい音を立てた。足下にあった目線を上げる。三成が薄く笑った。くちびるが少しだけ動く。

「家康、」

家康はぞっとした。彼は気付いた。気付いてしまった。

(三成)

どくどくと心臓が煩い。呼吸が苦しい。

(…お前、を)

天秤にかけていた。そんな気がした。たった一人の微笑と、民草の笑顔の、価値を比べている。彼が障害になることを当然のように考えているのだ、自分は。心中をちらとも顔に出さず、家康は笑った。いつものように。

「ああ、どうした。三成」

痩躯の右に立つ。金色の海のなかに月世がいた。笑っているようだ。三成は眩しそうに目を細める。

「金色の都だな。…貴様のように喧しい色だ」



刃はいらない。だが、鷹は死ぬまで鷹だ。いつまでも敗者のままではいられないことを彼は知っていた。





(120312)


 
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