乾いた硯の上に桜の枝が置いてあった。書きかけの書簡に花弁が何枚か散っている。三成は文机に肘をついて、ぼんやりと筆の横にある枝を眺めた。寝起きの頭が上手く回らない。どうやらいつのまにか眠ってしまったようだ。状況を理解し、唸りながら首筋を掻く。桜の枝を指先で摘んだ。春の陽光に淡く花弁が透けていた。

「……くだらんことをしよって…」

筆に使えとでも言うつもりか、馬鹿。言いながらも声色はまろやかだ。自分の喉から出たそれにぎょっとして、彼は息を止めた。しばらくしてから長く吐き出す。

「………チッ」

舌打ちをして座布団から立ち上がり、廊下に出る。太陽の位置を確認して、自分がそれほど居眠りしていた訳ではないのだと知った。右手に枝を持ったまま屋敷を行く。奥から古株の見慣れた女中が歩いてきた。

「あら、旦那様。どうされました?桜など持って。似合いますねぇ」
「その呼び方を止めろ!」
「照れなくてもよろしいのに」
「黙れ!殺すぞ!!」
「奥方様でしたら庭の方にいらっしゃいましたよ」

女中はクスクスと笑いながら去っていく。引き際を知っている。逃げ足だけは早い。鼻を鳴らしてずかずか歩いて行く。



濡れ縁に目当ての人物が座っていた。藤色の小袖に桜色の帯を締めている。膝に何か白いものがのっていた。にゃあ、という鳴き声が聞こえる。猫だ。白く長い尾が、ゆらゆらと揺れる。月世の色の明るい、柔らかそうな髪が、陽に照らされてきらめいた。睫毛を伏せた横顔の穏やかさに、無意識に目を細める。彼女は三成にまったく気付く様子がない。鈍感な女だ、と思う。膝の猫は三成に気付いたらしい。素早く起き上がり、こちらを見たと思ったら、月世に知らせるように一際大きく鳴いた。薄い瞼が震え、丸い目が猫の視線を辿る。ぱちり、と目が合った。

「あ、おはようございます」
「………これはお前か」
「はい」

枝を掲げると、こくりと頷く。それから、又吉さんから頂いたのです、と付け足した。庭師の名前だ。嫁いでから四日しか経っていないというのに、馴染むのが異様に早い。

「きれいでしょう。桜も盛りですね」
「…ああ」
「三成さまも座りませんか?暖かくて、気持ちがいいですよ」
「…フン」

音を立てて隣に腰を置くと、月世がにこりと笑う。何故か直視出来ない。ぷいと顔を背けた。ふいに、にゃあん、と猫が鳴いた。白く、ほっそりとした、毛並みのいい猫だ。金色の瞳が三成を見てから、右手に持った枝にちょいちょいと手を出し始めた。揺れているのが気になるらしい。

「なんだ、その猫は」
「え、三成さまも知らないのですか」
「知らん」
「では野良猫ですね」

それにしては毛並みがいい。大方、女中たちが餌をやっているのだろう。長い尾が甘えるように娘の顎先を撫でる。桜色のくちびるが目に入り、枝を持つ右手に力が篭る。猫の前足が素早く桜を打った。枝を噛んで引っ張るので手離す。

「なんだか三成さまに似ています」
「…色合いだけだろう」
「動きも速いです」

他愛のない話だ。必要性を感じない。こんなことより、書簡を書き、刀を振り回し鍛練しているほうが、よっぽど主君のためになるはずだ。しかし。

「………」

例えば、触れ合う膝の淡い温度とか、猫の背を撫でる小さな掌とか、時たま春風に揺られる髪とか、濡れ縁に無防備に置かれた左手とか。

そういうものに、触れたいと思う。離れがたさを感じる。それがおかしい。自分はそんな人間ではなかった。何かに固執することなぞ、そうそうなかったはずなのに。

猫が枝を抱えて丸まった。その喉を擽る指を見て、もやもやする。猫でさえも享受できる彼女の指先。自分は触れない。

「……貸せ」

苛立ちのようなものが込み上げて、毟り取るように手を握った。月世が驚いたように顔を上げる。柔らかくて温かい手だ。多分力を入れたら骨が砕ける。気をつけて指を絡める。月世はぽかんとした間抜けな顔を晒していたが、しばらくして、ほわほわと気の抜けた笑みを浮かべた。頬に赤みが差している。

「何を笑っている」
「…三成さまの手は、冷たくて気持ちがいいですね」
「…お前は小さいな」

にゃおん、と猫が鳴く。金色の瞳が三成たちを見上げた。

「三成さま、お花見に行きませんか」
「………」
「城の裏手にあるそうです。近いですし、お暇なら、お願いします」
「……わかった」
「ありがとうございます」

鶯が鳴いている。佐和山に春が来た。月世が連れて来たようだ。





(110210)

 
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