噂を聞いたぞ。そんな風に官兵衛が縁側からいきり立って話し掛けて来たので、吉継は頭巾を被った頭を巻物から上げた。大柄の客はどかりと座りこみ、苦々しげに言う。 「三成は己の妻を太閤の閨に侍らせていると。そうして秀吉から褒美を授かっているのだと」 「馬鹿なことを」 吉継は鼻で笑った。ありえない。それに、三成の悪評は今に始まったことではない。いちいち気にするのも阿呆らしい。にたり、嗤って言葉を返す。 「悪名高い凶王にはぴったりよの」 「笑い事じゃないぞ、刑部」 官兵衛は低い声で言う。どうやら怒っているようだ。月世を随分気に入っているためだろう。あの少女は、基本的に不幸な人間に好かれるのだと吉継はみている。父親も兄もその節がある。血筋なのかもしれない。 「月世は秀吉から内謁を受けている。それもこのところ毎日だぞ。兵たちがどう思うか…」 はぁあ、と官兵衛は大袈裟に溜息をつく。長い前髪の奥の目が非難するように吉継を睨み付けた。 「大体、お前さんも三成も、人の目を気にしなさすぎだ。妖怪変化のように言われている」 「ヒヒッ、恐怖で統率がとれるなら楽なものよ」 「……気にくわんな」 官兵衛は口を尖らせて、ああもう気にくわん気にくわん、と喚いた。うるさい。ひょいと指先を動かして数珠を大男の側頭部にぶつける。蛙の潰れたような声が聞こえた。 「……相当肝が冷えるよな」 「は?」 「月世のことよ。…三成ばかりか太閤にまで気に入られておるとは」 吉継にとって頭の痛いことだった。三成と月世の祝言は略式の簡単なもので、あまり軍内には知られていなかったはずだ。彼女が登城したことは何度もある。何故今更とやかく言われ始めたのかはわからないが、月世は家臣の妻にしてはあまりにも優遇されているし、余計なやっかみを買うのは間違いなかった。 「三成は他の縁談を全部蹴って月世をもらったからな。まあ恨まれるといえば恨まれるが…そんなに心配するほどのことかね」 その問題もあった。吉継は溜め息をついた。左腕だ後継者だと持て囃されているわりに、三成には敵が多い。 「三成、もうやめろ!」 折れた歯が転がっている。羽交い締めにした体が暴れて腕から抜け出した。慌てて右腕を掴む。日頃白い手は相手の血と彼自身の血で汚れていた。男達がよろよろと逃げ出す。血反吐をはいて立ち上がれない者が一人。家康は必死に三成を止めた。 「許してやれ、これ以上殴ったら死んでしまう!」 「離せ家康!」 「やり過ぎだと言っているんだ!」 「私がッ、私の貴いものを守って、何が悪い!」 家康は何も言えなくなってしまった。背後にだんだんと人だかりができてきているのがわかる。三成の虹彩の金色が怒りに燃えている。家康は息苦しくなる。この男の余りの愚直さに。腕を掴む手が少し、緩んだ。 「何事ですか?」 場にそぐわない、のんびりとした声がした。三成がぱっと横を向く。月世、とくちびるが小さく動いた。つられて横を向くと、人垣から月世が押し出されるように出て来た。家康の言葉では止まらない三成が、彼女の言葉で止まる。月世は目をぱちぱちさせながら辺りを見回して、なんとなくこの状況を理解したらしい。とてとてと寄って来て、三成さま、喧嘩はいけませんよ、喧嘩は、とか言いながら、懐から懐紙を出す。軽くそれを皮膚の破れた三成の拳に押し当て、次に座り込んでいる男の方へ。 「まあ、鼻が折れてしまったのですね…誰か、匙を呼んで、」 「月世、やめろ」 三成が怒鳴った。月世がきょとんとする。やっと男が野次馬の誰かに回収されていく。血痕が点々と廊下に残っていた。なんだもう終わりかとかなんとか、勝手なことを言いながら人が散っていく。 「なぜですか」 月世が優しく言う。甘い声音だった。三成は視線をうろうろさせてから、吐き捨てるように言った。 「お前を、侮辱した。視界に入れる価値もない。慈悲など…」 「……そうだったんですか。でも、わたし、気にしません」 「なぜ」 「三成さまがわたしの代わりに怒ってくれたから、もういいの」 許してしまえる。彼女は笑う。わたしは大丈夫。それよりも。白い手が三成の手を取った。しゃら、と花飾りが音を立てる。血の滲んだ手を見て、月世が顔をくしゃりとさせる。家康はどきりとした。 「あなたの手が傷つくことが嫌」 その言葉を与えられる三成を、羨ましいと思った自分に。 (110828) ← ×
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