家康はいつまでも豊臣の下にいる人間ではない。あれは仕える者の眼ではない。誰だって思っている。徳川がいつか裏切ること、離反することを。石田三成以外は。 鹿威しが鳴った。月世は痛みを堪えるような顔で言う。 「恨みを買うだけでしょう」 「…近頃三河はきな臭い。芽は潰しておいたほうが良かろう」 「そんな…」 それは本当だった。米、火薬と鉄。そんなものが裏で買い占められているようだ。だから、少し灸を据えた。結果は上々だ。徳川は犠牲を出して勝利し、豊臣は次の進軍の足掛けができた。もう秋だ。冬がくる前にあらかた終わりにしておきたい。碁石を置くと、月世が小さく唸る。しばらく沈黙してからぽつぽつと話し始めた。 「わたしは恐ろしいのです、殿下」 「ふむ。申してみよ」 「……貴方様のあのひとへの愛情が…手塩にかけて育てたあのひとに、人をたくさん殺せと、徳川の枷になれと、おっしゃる」 家族のように、道具のように。その矛盾が、身勝手さが、心底恐ろしい。それに、と、吐き出すように彼女は続ける。脅えたような目をしていた。 「豊臣は破竹の勢いで天下を取ろうとしております。まるで奔馬に跨がっているようで、…わたし、置いてけぼりにされているようで、怖くて…」 「…お前は、臆病者だな」 「……そうなのでしょうか…」 碁はおそらく秀吉が勝つだろう。月世は勝負事に弱い。 聞こえよがしの声は廊下の端の方から聞こえるようだった。 「太閤の前ではまるで媚びる女だな」 「先の戦での非道な仕打ち…」 「…命乞いした女子供を斬ったらしい」 「石田は人を斬るのが愉しいのだ」 「狂人め」 家康はしかめっ面をした。一言言ってやろうとすると、本人に止められる。 「言わせておけ」 「しかし三成」 「どうでもいい」 三成は無表情だ。声色も変わらない。廊下の向こう、数人の男は嘲笑を含めて話を続ける。 「ああ、そういえば。聞いたか?石田は――」 耳を塞ぎたくなるような言葉に、横の男の空気が変わった。まずい、と家康が止めるより先に、三成は風呂敷を押し付けてくる。落ち着いた動作だった。そのままくるりと振り向き、男達の方へ向かう。家康は慌てて後を追った。 「待て三成!」 家康の制止の声に、男達がぎょっとしてこちらを向く。三成は一直線にすたすたと歩いて行く。まずい、これはまずい。やめろ落ち着け三成、家康が口を開こうとしたところで、三成が男の一人を思い切り殴り飛ばした。 ← → ×
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