失うのなんて一瞬だった。まばたきの間に背後を取られていた。静かな殺気に枝から落下して逃走する。右の手の甲に刃物が掠った。敵は追ってこない。そのまま走り続ける。鬱蒼とした木々を跳びはねる。暗闇は好きだ。わたしを隠してくれる。手がずきずきと痛んだ。


違和感がしたのは、長と才蔵を見つけて気が緩んだころだった。切られたところが妙に痺れる。一度止まり、腕を上げた。傷口を月明かりが照らす。かすかに腐臭がするのに息が止まった。頭から血の気が引く。叫びたいのを堪えて手甲を外す。愕然とした。腐っている。じわじわと、布が水を吸い込むように、肌が腐食していた。


長の焦った声が聞こえる。才蔵の青ざめた顔に、確信した。右手は駄目だ。完全に腐って今にももげそうになっている。このままでは死ぬ。放心状態に陥っていると、長がぎゅっと二の腕を縄できつく縛った。才蔵がかすれた声を上げる。

「佐助、まさか」
「腕を切り落とす。もしかしたら助かるかもしれない」

口の中に布を突っ込まれる。いいな、と目で聞かれて、何故だかあなたの顔が浮かんだ。笑っている。月を見上げた。
頷いて、目を閉じた。



頭を上げられなかった。里へ帰る、とだけ言った。あなたの怒りは激しかった。がしゃんと花器が割れた。硯が砕けた。襖が倒れた。紙が燃える。

「ふざけるな!」
「………」
「許さぬ、許さぬぞ!俺から離れるなど…!」

右手は二の腕から下がない。これを忍としておくのは無理だ。黙って畳を見つめていたら、騒ぎが静まった。視界に白い足袋が見え、次に袴に包まれた膝が。温かい手が、左手を握った。躯がみっともなく震えた。

「椿、顔を上げてくれ…!」
「………」
「お前が、ここにいたいと、一言でもいい、言ってくれたら、そしたら」

そしたらずっと一緒に。囁く声が揺れている。この優しさが、温かさが、わたしを棄ててくれればいい。手の温みが恐ろしい。狂いたくなる。

「……椿、何か言え…」
「………」
「…俺が嫌いになってしまったか…?」

全部あなたのせいだ。昔のわたしだったら、背中を取られることはなかった。毒の仕込まれた刀などかわしていた。
こんなに、弱くなかった。

「……失礼いたします」

やっとのことでそれだけ言って、温かい手を振り払って退室した。わたしは初めて泣いた。




逃げよう。あなたがいないところまで。優しさも温かさもない場所へ。忘れよう。あなたのこと全て。あの切ない声も綺麗な赤色も。





(110217)


 
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