例えば、あなたの眼が光を失ったら。 わたしは朝を殺そう。あなたに見えない光などいらない。 例えば、あなたの耳が塞がったら。 わたしは喉を潰そう。あなたに聞こえない声などいらない。 例えば、あなたの拳が砕けたら。 わたしはあなたの盾になろう。あなたに痛みなどいらない。 例えば、あなたの呼吸が止まったら。 わたしは花になろう。そうしてあなたのなきがらに真紅の花弁を散らす。あかはあなたのいろだ。 あなたのいない世界など、いらない。 わたしの躯はわたしのものではなくて、わたしはヒトですらなかった。ただ術だけを持ち、何の誇りも意味も幸せも苦痛も持たずに生きてきた。死んだように生きてきた。そんなわたしに笑い方を教えてくれたのはあなただった。 「名はなんというのか」 あなたが聞いたのでわたしは正直に、ありませんと答えた。あなたは困惑したようで、嘘を申すな、と言った。わたしは言った。 「名前はありません」 「……誠か」 あなたは変な顔をして、なんだか苦しげだったから、慌てて付け足す。 「前は九番と呼ばれていました」 あなたはますます顔をくしゃりとさせた。それからふぅと息を吐いて、俺が付けてもよいだろうか、と言った。あなたは三日考えて、わたしを椿と呼ぶようになった。 「椿」 あなたが褥に寝転んでわたしを呼ぶ。 「はい」 天井裏から応える。あなたは何故か驚いて、なんだ、いたのか、と大きな声で言った。 「また天井裏にいるのか」 「はい」 「こちらへ来てくれ」 「はい」 板を外して、畳に降りる。あなたは起き上がって、火鉢をわたしの前に動かした。 「寒かっただろう、座れ」 「はい」 「『はい』しか言わぬなお前は」 「………」 「茶は飲むか?」 「………」 「酒がいいのか?」 「……いいえ、どちらもいりません」 「そうか、では白湯にしよう」 「………」 差し出された湯呑みは温かくて、あなたの手は温かくて、なにより微笑みが温かい。少しだけ鼻の奥がつんとした。優しさというのはこういうことなのだろうなと朧げに思った。そして、わたしのこころはこの人の優しさに壊されるのだろうと予感した。懐の苦無がやけに冷たく感じた如月の夜。 (110210) ×
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