鬼がいる、と思った。あかい、鬼だ。見つかったら、頭から噛み砕かれて、喰われてしまうのだろう。はやく、逃げなければ、いけない。そう思うのに、わたしは視線を外せない。細く開いた襖から見える、父の転がった首が、どす黒く畳を汚していく。庭の松を焼く紅蓮の焔。柱に、壁に、至る所に刺さった沢山の矢。男たちの勝鬨の声。城へなだれ込んだ赤い鎧の立てる音。刀の煌めき。そして、うつくしい男のかたちをした、赤鬼。鬼は血に塗れた精悍な顔を小揺るぎもさせない。額の鉢巻きが生暖かい風に揺れて、わたしの手も揺れて、汗で滑った短刀が畳にぼとりと落ちる。 次の瞬間、襖の隙間を見る赤鬼と目が合った。 *** 生暖かい血風が気持ちいい。切り付けた背中から噴き出す血液が首にかかった。熱い。しどとに濡れた着物はどす黒く染まっている。液体が肌を伝う。邪魔になった鎧をとり、血と脂に塗れて刃零れした刀を捨てる。近くにあった亡きがらの腰から刀を抜いた。鞘を放り投げ、前を向く。あの時の、鬼がいた。 「……女子ではないか」 「あら、女が珍しゅうございますか」 赤鬼はぴくりと柳眉を動かした、気がした。剥き出しの顔も腹も返り血で真っ赤で、よくわからないのだ。緋装束はさながら炎のように赤い。血を吸った鉢巻きが重たげに揺れている。 「……真田幸村さまでございますね」 「………」 「ずぅっと……お会いしたかった…。…その御首、とらせていただきとうございます」 「…そなたは名乗らぬのか」 「名前など、とうの昔に捨てましたので」 かちんと、持ち直した刀の鍔が鳴る。ひゅうっ、と風が吹いて土埃を巻き上げた。鬼は二槍を持ち、ぼんやりと突っ立っている。構える気配が全くない。随分と余裕なようだ。睨み据えていると、ぽつりと口を開く。 「どこかで、あったな」 「………いいえ」 「そなたを見たことがある」 「……気のせいでしょう」 「忘れられなんだ」 足が震えた。頭が酷く痛む。まさか、覚えているとは。くちびるをきつく噛む。結い上げていた髪は血肉に塗れて固まっている。乱れた髪が縁取る視界には、あの赤鬼。父と母と、わたしの仇の、美しい男。手が震える。あのとき落とした短刀と、父の首と、火の熱さが蘇る。 「…どうして、殺さなかったの」 女々しい、いやな声色だった。あの日に、そんなものは捨ててきたはずだったのに。美しい簪も、良い香りのする着物も、小さな貝殻に入った紅も、全部、あの日の紅蓮の炎に舐められてしまった。わたしは咆哮した。 「どうしてわたしを殺さなかったの!」 「………」 「あの日から、あなたのことばかり考えていた、あなたを殺すときを夢見て!でも駄目なの、辛いの!苦しいの!」 「………」 「苦しい。憎しみで生きていくのは苦しい。わたしも、あの日に死んでいればよかった!!」 そうすれば痛みも引きずらなくて済んだのに。渇いていた眼球が潤っていく。手の震えはますます酷くなっていた。 「生きていてほしかったのだ」 ざり、と具足が近付いて来て、肩が揺れる。刀を構えなおす。あの鬼の首を落とすために。震えが、止まらない。なぜ、わたしは震えているのだろう。 「おぬしに生きていてほしかった。死んでほしくなかった」 「…なにを、言って、」 「殺すには忍びないほど、美しいものを見たと思った」 「……うるさい!だまれ!!」 切っ先を喉に突き付ける。震えている。駄目だ。振り上げた刃は動かない。斬りたいのに。殺すためだけに生きてきたのに。わたしの仇。なぜ、殺せない。息が苦しい。頬が濡れる。なぜ。なぜ、わたしはこの鬼の、男の言葉を、うれしいと感じているの。 男が半歩進んだ。息を飲む。得物を気にする様子はない。かすかに肉を刺す感触が手に伝わり、悲鳴を上げてしまう。刀を落とす。わたしを、守ってくれるものがなくなった。途端に恐怖に襲われる。わたしは何を恐れているのだろう。両手がさ迷う。 「やめて、やだ、来ないで」 からん、と二槍が落ちる。赤い両手がのびてきて、思わず目を閉じた。首を絞めるか何かするだろうと思ったそれは、背中にまわって、ゆっくりと開いた目に六文銭が見えた。肌に熱。視界に赤。顔を上げると、片時も忘れたことのない男がいた。息が、止まる。 「ずっと、お慕いしておりました、ひめさま」 鬼がくちびるを動かす。ああ、なんて、あかい。綺麗な、あか。ずっとこれがほしかった。初めてあったあのときから。 「…………わたし、あなたを殺したい…」 「はい」 「……なのに…駄目…できない」 「はい」 「どうしろというの……それだけのために、生きてきたというのに…」 男の力が強まった。いっそ抱き潰してほしい。どうしようもない。わたしは鬼に喰われてしまったのだ。あの紅蓮の焔のなかで、魅了されて。あとはもう、堕落していくだけ。 「某の傍にいて下され。さすればこの首、ひめさまに差し上げましょう」 髪の一本、爪の先、肉も骨も血も、心も魂も、すべてを、あなたに。お望みとあらば躊躇いなく。おれはあなたのもの。あなたも、おれのものになってくだされ。鬼が妖しく笑う。赤に染まったわたしには、この紅蓮の腕を振りほどくことなど、できはしないのだ。殺せない、いとおしいから殺せない。わたしは瞼を閉じる。 → ×
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