その日の三成は大層機嫌が悪かった。憧れの主から頂戴した硯を、城に入り込んだ野良猫に割られてしまったからだ。猫は遁走し、やり場のない怒りと悲しみだけが残った。そこに酒宴に誘われた。いつもなら罵り言葉付きで断るのだが、今日は話が違う。

かくして喉が焼けるような酒を舐め、楽しげに騒ぐ者たちを冷めた目で見る。宴の真ん中では、いつも以上に上機嫌な家康が、腹に顔を描いて踊っていた。大分酔っ払っているらしい。吉継は館の主人と旧知の仲らしく、酒を酌み交わしながら話し込んでいる。笑い声はいつまでも止まない。

新しい酒を注ごうとして、銚子の中身がないのに気付いた。軽く舌打ちした途端、大量に徳利と酒瓶の転がる視界に影が射す。

「はい、どうぞ」

顔を上げる。大人しそうな娘が新しい銚子を差し出していた。無言でそれを奪い取り、盃に注いで飲む。ただの水だった。三成はギロリと娘を睨みつける。

「貴様…何の真似だこれは」
「い、いえ……飲み過ぎだと思いまして」
「うるさい黙れ!私の勝手だ!」
「ですが、徳利もこんなに……ああほら、誰か様が腹踊りをしておりますよ。お酒は止めて、ご覧に入れて下さい。楽しいでしょう?」
「あんなくだらないもの誰が見るか、馬鹿!さっさと消え失せろそれか死ね!」
「……お、面白いと思うのですが…」
「私は今すこぶる機嫌が悪い。そんなに酒を止めさせたいのなら、代わりに貴様が何かするのが道理だ」
「はぁ、そうですか…」

怒鳴られた娘が目に見えてしょんぼりした。ふん、と鼻を鳴らすと、娘の表情がますます沈む。酒で判断力の鈍った頭がいらいらする。一発ぶん殴ってやりたいと思う。三成が拳を握った瞬間、娘がするりと手を差し出した。小さな手だ。

「……扇を拝借してもよろしいでしょうか?」
「は、」
「僭越ながら、舞をいたします。貴方様のお気に召したら、今宵はお酒を止めて下さい」
「………いいだろう」

盛大に舌打ちしてから、懐から扇子を取り出して、娘に渡す。娘は小さく礼をして立ち上がり、酔い潰れた者をはしたなく跨いで行った。裾からのびる足首が雌鹿のように細い。座敷の真ん中へ向かう娘が声を張り上げる。よく通る、澄んだ声だった。

「わ、わたしも一差し、よろしいですか?」
「おお、待ってました!」
「家康、退け退け!おぬしの腹などもう見飽きたわ!」
「わははは」
「姫ェ、ほら、これを」

千鳥足の官兵衛が活けてあった菫をとってきた。髪に濡れた菫を差し込まれて、娘はにこにこと笑って礼を言う。館の主人の娘か、と気付いたのは、その呼び掛けを聞いたあとだった。どうでもいい。気にせず前の男の隣にあった銚子を掠め取る。まだ半分ほど残っていたそれを傾けた。

「それでは、」

すっと手が前に出され、ぱんっと音を立てて扇子が開く。澄んだ声が歌い出した。遠い昔の恋の歌だ。座敷が妙な静けさに包まれる。笛もない、ただの酒の席の一興。それなのに。娘の耳の上で菫が揺れる。滑らかに足が動いて、形の良いくるぶしが見えた。そっと扇で口元を隠す姿が驚くほど艶めいている。流し目がこちらを向いて、小さく笑ったように見えた。

気付いた時には、なみなみと注がれた酒が盃から溢れて、小袖がずぶ濡れになっていた。周りでは称賛の言葉が飛び交い、座敷の真ん中では、真っ赤になった娘が、照れながら無邪気に笑っている。ぼんやりとそれを見ていると、人伝いに扇子が返ってきた。菫がぽつんと乗せてあった。


三成は約束は守る男だ。なのでその夜はもう酒を飲まなかった。悔しいことに彼女を随分気に入ってしまったので。




「……あの、飲み過ぎではありませんか?」

騒がしい宴のなか、花嫁が囁いた。ちらりと目をやると、あの時と同じ、物静かそうな娘がいる。微かに白粉の匂いがした。ぐびりと朱塗りの盃を飲み干して差し出すと、困り切った顔をして空になった銚子を見せる。

「ほどほどになさったほうが…」
「うるさい黙れ、私の勝手だ」
「でも…お体に障りますよ」

目の前の男の自棄酒を止めるために、ささやかな酒の席で舞を披露したことなど、この娘はちっとも覚えていないのだろうな、と三成は思う。本人にとってはたいしたことはないのだろう、酔っ払いの無聊を慰めただけだ。
それでも、三成は嬉しかった。

「三成さまはお酒に強いのですね」
「……悪いか」
「いいえ。でも夫婦になるのですから、貴方の身体はわたしのものでもあります」

存外気が強いのかもしれない。茶色が強い、柔らかそうな髪が彼女の頬にかかる。菫が揺れて、口が思わず動いていた。

「嫌ではないのか」
「はい?」
「………嫁入り…」
「え、ええと、最初は不安でした。噂も凄かったですし」

三成はあまり軍内での評判が良くない。噂の七割くらいは真実だし、女に嫌われる要素は満ち溢れている。それがこの娘に知られているのだと思うと、陰欝な気分になった。無意識に顔をしかめる。反対に花嫁はようやく緊張が解れてきたのか、にこにこと笑っていた。三成の不機嫌な悪人面に臆することもない。

「でも、お話とは全く違いましたよ」
「………」
「先程から気にかけて下さいますし、……この前は扇も貸して頂いて。ありがとうございました」
「………」
「やさしいですね」
「……馬鹿か貴様は…」
「……あら、お顔が真っ赤ですよ?流石に酔われましたか?」
「黙れ!!」





きっと貴方の「好き」になるから
(110202)

ひやり様へ!


イメージ的に豊臣全盛期です。はまりたてなので色々と間違っている点もあると思います。恐れ入りますすいません。


 
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