しとしとと雨が降っていた。放課後の職員室は薄暗い。紙の擦れる音。コーヒーの匂いが漂っている。水滴がガラスを伝って外の景色を歪ませる。雨は嫌いだ。調子が悪くなる。

「アムリタを知っていますか?」

三成はゆっくりと窓から顔を動かした。担任の教師が穏やかに微笑む。見ていると、なぜか苛々する。パソコンと何かの書類が積み上がったデスクは、はっきり言って散らかっている。小さな猫の置物。インクの少なくなった赤いペン。輝く銀色の鍵。赤い飴玉の入った小皿。無理矢理開けたような隙間に、無造作に置かれた紙切れには『進路調査』と印刷されていた。2年B組、石田三成。それ以外は何も書かれていない。

「知らん」
「インド神話に出てくる不死の霊薬です」

それがどうした。彼は顔を顰めた。担任教師はのんびりと話を続ける。この教師は生徒に対しても敬語を使う。たまに眼鏡を掛けている。階段で転けてノートをぶちまけたり、水道の蛇口を壊してずぶ濡れになったりと、大分ドジな人間だ。よく教員試験に合格したものだと思う。

「アムリタは中国では甘露と同一視されていて、瑞兆として天から降る甘い水とされています」

現代文の授業で教科書を読み上げる声と同じだ。するすると淡い色をした唇から言葉が出てくる。三成は視線を机上に動かす。左手の薬指のシンプルな指輪。昼休みに家康が言っていた。先生、結婚したらしいぞ。大学生のときから付き合ってるひとと。なにかお祝いをしなければな。三成は奥歯を噛み締める。頭がずきずきと痛んだ。雨のせいだ。

「あの雨は甘いかもしれません。そう考えると楽しくなりませんか?」
「楽しくない」

即答する。教師はまた目を細めた。

「石田くんは、国語はちょっと苦手みたいだけど、想像力はあると思います」
「………」
「自分の未来を想像してみてください」

銀の輪に繋がれた薬指が忌々しかった。別れろ、と三成は思ってみる。別れろ、別れろ、別れろ!

「例えば、教師とか、どうですか。長曾我部くんが、石田くんに数学を教えてもらったって、喜んでいました。人にものを教えるの、上手ですね」

その無防備な笑顔をやめてほしい。三成はもう泣きそうだった。せんせい、と彼は思う。せんせい、わかりません。どうして貴女の薬指を見ると苛々するのか。どうしてこんなに泣きたくなるのか。私には、わからない。おしえてください。せんせい。




「先生、さようなら」
「さようなら」

廊下ですれ違った二人の女子生徒が揃って声をかけてきた。反応が少し遅れた。三成は振り返って声をかける。

「さようなら」

女子生徒が振り返った。それから二人で顔を見合わせ、クスクス笑いながら去って行く。この年頃の子供はよく笑う。自分もそうだったのだろうか。覚えがない。不思議な気持ちになる。窓の外は薄暗い。銀の雫がガラスを伝っている。雨は嫌いだ。嫌なことを思い出す。気圧のせいか頭も痛くなる。スリッパが床を擦る間抜けな音が響く。放課後の学校は結構静かだった。耳を澄ますと、どこからかトランペットらしき音が聞こえる。職員室に入る。三成のデスクの横に、女子生徒がパイプ椅子を引きずって来ていた。

「どうした」
「あ、先生」
「まだ帰ってなかったのか」
「傘、忘れちゃって。止んでから帰ります」

それに問題集でわからないところもあったし、と女子生徒は続ける。三成は椅子に腰を下ろした。机に放り出されてあった眼鏡を掛ける。

「どこだ」
「これです」

三成はボールペンを手に取った。女子生徒が持って来た問題集を読む。

「この前、4組の子に告白されたって本当?」

女子生徒が上擦った声で言う。三成は顔を上げた。小首を傾げる。そういえば、一週間ほど前に、化学室に一人で来た生徒がいた。

「……ああ、あれか。私はホモだから無理だと言っておいた」
「それ、噂になってますよ」
「問題はない」

頭痛がする。ぱきぱきと首の骨を鳴らした。女子生徒は真剣な顔をしている。

「本当にホモなんですか?」
「男と寝たことはないが」

女子生徒はほっと息をついた。それからにこにこした。なにがそんなに嬉しいのか、三成にはわからなかった。

「何がおかしい」
「んーん、なんでもない。石田先生って鈍感だね」
「?…そうか」

彼女は無防備に笑う。この生徒は少しあのひとに似ている。薬指の銀の指輪はずっと輝いていた。三成が卒業するまで。

「先生はどうして教師になったんですか」

次から次へとよく口が回る。無視しようかと思ったが、女子生徒が教師を目指していることを思い出した。頭痛がひどくなってきた。彼の指は整頓された机を滑る。頭痛薬はどこにあっただろうか。

「恩師が教職を取っていたからだ」
「えっ」
「なんだ」
「いえ、なんか理由が普通だったから」

敬愛する二人の影響で、昔から教師になるのが夢だった。そして、彼らの同僚が彼女だった。

「私に文系の教科は無理だった。人の気持ちが関係してくるからだ。だから生物も無理だ。あとは消去法だ。私は化学が性に合っていた」

黒板に書かれた字は、あまり綺麗ではなかった気がする。ゆっくりと教科書を読む声は眠気を誘うと評判だった。風に翻る白いカーテン。教科書のページを捲る爽やかな風。雨が好きだと言っていた。ズキリとこめかみが痛む。三成は目を閉じる。

「どうしたんですか?」
「頭が痛い…」
「え、風邪?」
「雨のせいだ」

薬を飲もうと引き出しを探る。奥に白い箱を見つけたとき、女子生徒が声を上げた。

「雨、嫌いですか?」
「嫌いだ」
「わたしは結構好きなんだけど」

女子生徒はにこにこしながら言う。人の少ない職員室に雨音が響く。雨は嫌いだ。苦い真実ばかりを三成に突きつける。彼は手の中の箱を弄る。どこが甘いものか。

「たまに虹がかかるでしょう」
「それが?」
「得した気分になりませんか?」
「ならない」

彼女は少し気分を害したようだった。むっと唇を尖らせる。大人げなかっただろうか、と彼はぼんやり思う。泣くかもしれない。面倒なことだ。化学室に来た女子生徒は、泣きながら帰った。随分手酷い言葉を言った覚えがある。女子生徒は机の上の問題集を手に取った。

「…そろそろ帰ります」
「折り畳み傘なら貸すぞ」
「いりません。…また聞きに来ます」

しばらくすると、職員室の窓から先程の女子生徒らしき姿が見えた。可愛らしい水玉模様の傘がくるくる回っている。三成は頭痛薬を口に含んだ。水で錠剤を嚥下する。

(……傘、持ってる…)

雨が好きだと言う。変な生徒である。彼は、雨があがり、青い空に虹がかかるのを想像してみる。虹は何色だったか。思い出せない。



「せんせい」

青いリトマス紙は赤くなる。化学式を扱うのは単調な作業。それはわかる。鼻先を掠めた女子生徒の髪からは甘い匂いがする。散らばったプリントとノートを拾うのは大変だろう。他人事のように三成は思う。転がったビーカーから濁った水が零れ、化学室の床に水たまりを作っていく。セーラー服の袖からのびた手が白衣をきつく掴んだ。胸の辺りで、あのときの自分のような声がする。

「せんせい、おしえて」

知らないものをどうやって教えろというのか。自分に、あのひとが言っていたような甘い雨はきっと降らない。虹も見えない。三成が知っているのはそれくらいだ。彼は一つ溜め息を零した。





加害授業
(120227)
title 舌


 
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