「ひとでなし」

名前が金切り声を上げた。幾人かの兵士たちに押さえ込まれ、それでも家康に噛み付かんばかりに叫ぶ。刑場に引き立てられた姿を見た途端にこれだ。半狂乱になった名前が兵士に羽交い締めにされながら喚いた。砂の粒がじゃりりと鳴る。家康は床几に悠然と座ってそれを眺めていた。

「家康、やめろ!やめさせろ!」
「できんな」
「約束を違えるつもりか!!」

長く美しい黒髪が乱れている。紙のように白くなった肌、血走った目、荒れたくちびる、怒りに染まった表情。彼女は般若のようにうつくしい。汚れた小袖の裾から見えた足首は縄で縛られ、痩せて痛々しかった。腕を背中で固められた彼女は家康に吠える。

「私が軍門に下れば、命は助けると、お前は言うたではないか!」
「お前の命、はな」
「このっ…下衆が!畜生が!」
「黙って見ていろ。自分の主の首が落とされるときを」

名前が殺意に満ち満ちた視線で家康を睨む。くちびるをひどく噛んだようだ。血が滲んでいる。家康は少しだけ口角を上げた。床几から立ち上がる。両腕を捕らえられ、膝立ちになった名前の隣に屈んだ。小さな顔を掴んで、無理矢理白く細いからだに眼を向けさせる。腕を枷に首を縄に繋がれた彼女の主が、兵に引かれて歩いている。市中を引き回されたというのに、三成の顔はいつもと同じ、無表情だった。前だけを見て泰然としている。血に濡れたくちびるがわなないて、みつなりさま、と名前が喘いだ。次いで叫ぶ。三成さま!三成さま!三成さま!刑場はがやがやと騒がしい。彼の人にこの声は聞こえていないだろう。この、切なさと愛とに満ちた、慕わしい声を。家康はこんな声で彼女に呼ばれたいと思っていた。そしてその願いは永久に叶わないだろうと確信した。

「家康、やめろ、本当に、やめてくれ」

後生だから、恩赦を。非難する声がとうとう懇願に変わる。私に出来ることならなんでも、なんでもする。だから、三成さまを殺さないでくれ。

「どうか、」
「無理だ」

にべもなく切り捨てて、家康はできうる限りの最高の笑顔で笑った。笑えた、はずだ。

「ワシではなく三成を選んだお前の望みなど聞けぬよ」

名前が目を見開いた。その呆然とした顔かたちを指先でなぞって、息を吐く。敵の大将から自分への慕情を吐露されて、なすすべもなく動揺している彼女がやはり好きだと思う。ふと、毛氈に血痕が滴っているのに気付いた。名前の握りしめすぎた掌に爪が刺さったらしい。きっとあの血は甘いのだろう。

「三成は殺す。お前は生かす。それがお前の罰だ」

名前は知らない。あの城の一室で、三成が家康に願ったことを。私の女を生かしてほしい。一言だけ三成は呟いた。それから長らく沈黙して、お前のことは許せない、一生、と呻いた。彼の双眸から雫が滴って膝に置かれた拳に落ちた。それに手を添えても拒まれなかった。自分も泣いた。でも彼を生かすことは家康には出来なかった。家康の、覚悟と、立場と、他の様々なものが、それをさせなかった。


三成が茣蓙の上に胡座をかく。獄吏が後ろに立った。清められた刀が光る。激しく身じろぐ彼女を若い兵士が必死に押さえる。

「……やめて…」

名前が囁いた。顔色は青を通り越して土気色になっている。三成より彼女のほうが死にそうだ。家臣たちが苦い顔でそれを見ていた。名前の瞼は凍りついたように動いていない。まばたきさえできないようだ。

「…やめて…!」

三成がすいと目線をこちらに寄越した。鋭い目が家康をじっと見つめる。小さく頷くと、彼が鼻を鳴らしたように見えた。

「いや!やめて!」

ついで、金の瞳が名前を見た。柔らかく目が細められて、小さくくちびるが動く。名前。何故か家康には彼がそう言ったのだとはっきりとわかった。名前もわかっただろうか、とぼんやり思った。

「お願いやめて!三成!!」

三成が目を閉じた。うっすらと、笑ったような気が、した。
役人が刀を振りかぶった。名前がひゅっと息を飲む。白刃が無情にきらめく。名前が小さく叫んだ。

「みつなり、」

彼女は想い人の命が失われるその瞬間を見た。見事な一太刀だった。転々と跳ねた首は家康たちに後ろを向けて転がった。ぐらりと薄い身体が前に倒れる。

「……あ、あ…、あぁ…!」

意味のない言葉を上げて、名前が狂ったようにもがく。獣のような唸り声が喉から漏れる。ぼたぼたと涙と血が落ちる。慟哭と絶叫はこの世の絶望を全て集めたようだった。家臣達がそっと離れる。がくりと痩せた腰が折れた。長い黒髪を掻きむしる手は血に塗れていた。地にうずくまり震える小さな背中を抱きしめたい。それができないことが、家康の罰だった。三成、と名前が鳴咽しながら呼ぶ。

「三成、わたしをゆるして、ゆるして」

秋だった。赤蜻蛉が晒された彼の人の首に止まった。家康は高く青い空を仰いだ。頬を伝うものに、二度とあの頃のようにはわらえないのだと悟った。





(110201)
title 舌


 
×