ふわふわと藤の花のような甘い香りが肺を満たす。潤んだ眼と赤く染まった頬。肌は柔らかくて熱い。赤いくちびるが誘うように開く。

「…ゆきむら…」



ぱちん、と目が覚めた。
夢、だった。………断じてがっかりなどしていない、断じて!ばくばくと心臓がうるさい。下半身に違和感がする。のろのろ起き上がって俯いた。はぁ、と溜息。情けない、破廉恥極まりない……。意を決して布団を剥ごうとした途端、ぱしんと障子が開いた。

「旦那ー、朝だよー」
「どわぁああああ!!!」

布団を戻す。佐助がきょとんとした顔でこちらを見ている。自分の顔がかっと熱を持つのがわかった。気付いたのだろう、忍がにやりと笑う。

「若いねー旦那」

佐助、と城中に響き渡るような声で絶叫した。鳥の羽ばたきが聞こえた。



俺はなんと破廉恥な男なのだろう。顔から火が出るとはまさにこのこと。鍛練が、足りぬ!煩悩を払わなければ!

「ゆきむら」
「ななななんでござるか!」
「火、出てる」

見ると拳に小さな灯が宿っていた。きれい、と名前が笑う。きれいだ、と思う。名前のほうがずっと。槍を握る力が強くなった。ぎゅっとくちびるを噛み締めて、なんとか、そうか、と返す。うん、とても、と名前が言った。今日は薄紅の小袖を着ている。先日俺が贈ったものだ。ほかほかと顔が熱くなっていく。途端にその小さなからだを組み敷く夢を思い出して、大慌てで槍を回した。ぽう、と穂先に赤い炎が舞う。その向こうに名前の背中が見えて、視線を反らす。夢で無体を働いた罪悪感で、もうまともに見れぬ。なんとも俺は不埒であった。あのからだを白い褥に押し倒し、口を吸い、赤い胸の先をこねて、柔らかい内股をなぶって、そうしてその足の間の奥を……。

「うぉおおおお叱ってくだされお館さまぁああ!!」

鳥が飛び立っていった。
わからぬ、俺は名前と、そういう…男女の関係になりたいのだろうか。
女は苦手だ。でも名前は、特別、だ。大事だ。慕っている。それが閨事に直結するのにがっかりした。所詮俺も男ということか。しかしこれではまるで獣ではないか。

名前と一緒にいると、俺は駄目だ。駄目駄目だ。団子も胸がいっぱいになって食えぬ。槍も落としてしまう。武士にあるまじきことだ。近頃はよく眠れない。すぐに揺らぐ。ふわふわして、まるで俺が俺ではない気になる。




「…幸村みたいな花」

ぽつんと名前が呟いた。その言葉に心拍数が上がる。『躑躅の花が咲いたような』。武田の赤備えがそう例えられることを、彼女は知っているのだろうか。そっと花弁のふちを辿る人差し指は細いけれど節くれ立っていて、ああ刀を握る手だ、と思う。あの指先にくちづけでも落とせたら。みとれてしまう。名前が不意にこちらを見上げたので、俺は慌てて口を開いた。

「躑躅の蜜を吸ったことはございますか?」

ふるふると首を振る彼女に、ぷちりと摘んだ花を差し出す。ぱかりと小さな口が開いた。雛鳥が餌を強請るようだ。真っ赤な舌と白い石のような歯にどきりとする。花を持つ手が震えた。やっとのことで花の端を舌の上に置いてやる。蜜を啜るくちびるは赤い。

「…あまい」

花をくちびるから離した名前が小さく感嘆の声を出した。目を細めて、随分穏やかな顔をする。俺はどうしようもなくそわそわする。

「政宗さまにも教えて差し上げよう」

その名前を聞いた途端、もやもやしたものが胸につかえた。そうだ、彼女の主はあの竜なのだ。甲斐には人質として来ているだけで、いつかは奥州に帰ってしまう。むむ、と俺は唸った。名前がぶつんぶつんと手荒に躑躅を摘む。

「ゆきむら、かがんで」
「む、」

言われた通りにする。素早く耳の上に躑躅が差し込まれた。名前は自分の耳にも花を掛ける。

「おそろい」

にこっとされた。つられて俺も笑った。また顔がほかほかする、頭はふわふわする。名前の小さな顔を、そっと両手で包む。なめらかな頬は陶器のようだ。ぱちぱちとまばたきする少女は、警戒心なぞ小指の先程もいだいていない。ゆきむら?と、名前が無邪気に笑う。なに、どうしたの、ゆきむら。小さな耳に掛けた躑躅が揺れる。鼓膜を震わす声に誘われて、淡く色づいたくちびるをくちびるで塞いだ。かすかに躑躅の蜜の味がした。

名前は目をぱちんと見開いて、俺を見ている。まことに愛らしいひとだ。自分の口の端が少しだけ上がったのがわかる。そこではっとして、数秒息をすることを忘れた。時が止まった。

「……あまい…?」

こてん、と名前が首を傾げた。顔から火が出た。比喩ではなく。少し焦げ臭い。名前はうつくしく笑う。この花、あまくておいしいのね。無邪気な声。おそらくこの獣じみた少女は今の行動の意味がわかっていない。俺は片手で顔を覆った。ああどうしよう、名前、俺は本当に名前が好きだ!




水分を失った躑躅の花が、兵法書に挟まっていた。かさついた花弁をそうっとなぞる。俺はどうしようもない男だな、と思う。

(彼女がくちづけて蜜を啜ったというだけで、)

火鉢が必死に冬の冷気を和らげようとしている。早く雪が溶けないだろうか。そしたら彼女に会いにいける。たどたどしい筆跡の手紙に破顔を抑えきれなかった。




(110806)
title カカリア


 
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