冷たい板敷きの廊下に平伏すからだは小さい。髪が落ちてあらわになったうなじは白かった。今ならたやすくこの女の命を奪うことができるのだろう。無防備にさらされた首筋に家康は思う。無礼な、と女を叱咤する従者を片手で止めて退がらせ、家康は濃青色の上等な布を纏った背中を見下ろした。背守の家紋。竹に雀。奥州伊達家の。

「畏れながら、征夷大将軍様」

澄んだ声だった。額を床にこすりつけるように深く頭を下げる。結い上げた長い黒髪が広がった。黒い袴と足袋の間に見える足首が余りに細い。

「奥州伊達家家臣、片倉名前と申します。此度は将軍様にお聞きしていただきたい儀がございます」
「……なんだ、言ってみろ」
「…畏れ多くも不遜なるは重々の承知なれど――西軍が将、真田幸村の恩赦をお願い申し上げたい!」

またか、と家康は眉根を寄せた。忠勝、信之と来て。政宗さえも頭を下げた。殺さないでくれ、後生だ、と。一国の主としての尊厳も何もない、恥も外聞もかなぐり捨てた、必死な、ただの男の顔。あのときの苦々しい気持ちが蘇る。殺すな。また、それを言うのか。友を殺さなければならなかった人間に。
無意識に握りしめた拳に気が付いて、息を吐く。ゆっくりと手を緩めた。真田幸村と、片倉名前。繋がりがわからない。しばらく思案して、そういえば、と思い出す。伊達と武田が同盟を結んだとき、どこぞの姫御が人質に。たしか――

「……昔の男の命が惜しいのか、藤姫」

ぴくりと女の肩が動いた。竜宝。藤姫。強さはまさに竜の吐く焔、美貌は竜の珠よと謳われる女傑。伊達の愛妾であり、鬼の小十郎の義妹と聞いている。質に出されたとき、あの若虎と関係を持っていたとしても不思議はない。

「………槍の師でした」

ぽつりと女が言った。それだけではないのだろう。嘲笑うように言ってやる。板敷きの床から足袋に冷気が伝わる。きっと平伏す女のからだは冷え切っている。もう冬だ。あの、銀の髪の友を殺した秋から、ゆるやかに季節は変わった。

「敵の武将にこころを奪われるとは。竜宝の名折れだな。…所詮おんな、か」
「………」

女は顔を上げない。なぜかその背中に、友の影がちらつく。そうか、と家康は気付いた。白い肌とうなじが、あの、細い首筋に似ている。

「……面をあげろ」

逡巡するような間があって、ゆっくりと頭が上がった。家康の身体を辿って視線が上がる。ぱちりと合った眼は澄んだ色をしていた。みつなり。名を呼びそうになった。顔立ちは全く似ていないのに。重く息を吐き、家康は目を閉じて、問うた。

「…なぜ、真田を助けたいのだ」
「………幸村を失ったら、わたしはわたしを許さないでしょう」

名前が言う。許さない。その言葉。許さない。痩せたからだ。私は貴様を。蘇る声。貴様を許さない。血濡れの銀髪。殴った肉の感触。
家康、貴様を許さない。

「幸村は、獣だったわたしを人にしてくれた。わたしは、あんな…清くて、強いひと、……見たことがありません。あのひとを失ってしまうのはとてもおそろしい…」

名前がそっと腰の刀を外した。膝の前に置き、懐から守り刀を取り出す。黒い漆塗りの鞘。すらりと慣れた様子で鞘を払って、名前はそれを腹に押し当てた。

「もし、訴えをお受け頂けなければ、わたしはこの場で腹を割きます」

家康は面食らった。ある意味これは脅しだ。政宗が唆した訳ではないだろう。寵姫を失ったとなれば、伊達とのいさかいは必須。わかりきったことだというのに、女はぬけぬけと徳川をなめきった態度を見せる。ぎらぎらと光る瞳がけだもののようだ。それは真っ直ぐに家康を射る。渇いているのだろう、名前がちろりと唇を舐めた。その舌の赤さといったら。

家康は薄い腹に添えられた守り刀を見た。あんな小さな刃では、腹を切るのは大変だろう。第一、守り刀というものは女が貞操を守るための刃だ。自分の背だけを受け入れるという、誓いの証。貴方以外のものになるならいっそ。喉を突いて。
ならば、この女は、名前は、何をまもっているのだ。喉ではなく腹を裂いて。ひとりのもののふとしての、片倉名前。

「……わかった、ころさない」

声が震えた。瞼の裏の残像が消えない。お前に、これを言えたら、どんなに。

「どこぞの山にでも閉じ込めてやろう。牙を全部抜いて、爪を全部折って。……これで満足か」
「……それは重畳。恐悦至極に存じます」

素早く刀を腰に戻し、名前は立ち上がった。そして、すぅっと目を細めて、静かに断言する。

「わたしは貴方を哀れだと思う」
「………」
「闇を失った貴方は、ずっとずっと美しく輝き続けて、きっと誰も近付けやしないでしょう。もう神様になるしかないでしょう。だから、わたしは貴方を哀れだと思う」
「………」
「貴方、とてもかわいそう。独りで生きていくしかないんだもの」
「……去れ。もう二度とワシの前に現れるな」
「――御意」

女はくるりと振り向き、摺足で廊下を歩いて行く。その背中が消えるまで、家康は立ち尽くしていた。

世界で一番美しく清らかな人だった。少なくとも、不幸になるべきではなかった。幸せになるべき人だった。家康にとっての三成はそういう人間だ。名前にとっての真田も、きっとそうだろう。
後悔はしない。したくない。できない。だから名前は生かした。家康は殺した。それだけ。それだけのこと。

月が煌々と光っている。夜の闇を照らしている。家康は空を眺めて、それから歩を進めた。





運命の孤独
(110413)
title by 舌
光と闇


 
×