衣擦れの音がする。畳を滑る白い足。啜り泣き。静かな喘ぎ。女の匂い。押し殺した吐息が、名前を呼ぶ。

襖の隙間から垣間見たものに、三成は激しい後悔を覚えた。何故立ち止まってしまったのだろう。明かりが消えていたのだ。不在だと、さっさと立ち去ればよかったものを。彼女に届けるはずだった紙の束を握りしめ、足音を消して冷たい廊下を歩く。最悪だ。友人の、己を慰めている姿など。割れた裾から覗いていた白い足がちらつく。くちびるが控えめに囁いた名前に眉が寄った。

彼女は結婚が決まっていたことを思い出し、三成は重く溜息をついた。自分は見てはいけないものを見てしまったのだ。



聞くに堪えないことを言う男の怒声が聚楽第の大廊下に響く。三成は顔をしかめた。喧嘩。しかもこのようなところで。人垣を掻き分け、前に出る。輪の中にいたのは大柄の男と、名前だった。男の方は既に刀を抜いている。

「抜けェ!」
「………」

名前は無言だ。帯刀しているが、だらりと両手は下がっている。能面のような無表情が男を眺める。痺れを切らしたのか、男が咆哮して刀を振りかぶった。次の瞬間にはそこに彼女の姿はない。板張りの床に深く突き刺さった刀をかい潜り、鳩尾に拳を叩き込んだ。男の身体が崩れる。苦しげにもがくが、起き上がる気配がなかった。

「秀吉公の御在所ゆえ、抜かなかった。公にお礼申し上げろ」

感情のない声だった。そのまま踵を返して去っていく。高く結い上げた髪がゆらゆらと揺れていた。

喧嘩の原因が、男が大谷刑部を中傷したことだと聞いたとき、刑部も三成の隣にいた。彼は、さようか、と呟いただけだった。三成は少しの間考えて、何とも思わないのか、と彼に聞いた。刑部は沈黙したままだった。



「石田治部」

名前は三成をそう呼ぶ。昔から変わらない、氷のような冷めた声、人形のような無表情。夕暮れの書院は薄暗い。火を点けようと立ち上がったところに声をかけられ、三成は座り直した。

「先日は見苦しいところを。悪かった」
「………」
「浅ましい女と、思っただろう」
「…いや、気にしていない」

自慰か喧嘩か、どちらのことかわからない。薄闇のなかに目を凝らす。女の濡れた二つの眼が、ぬらぬらと輝いている。

「石田、私はお前が嫌いだ」

冷え切った声だった。首筋に刃物をあてられたように、ひやりとする。

「大谷に触れるその指が憎い。声を聞けるその耳が憎い。姿を見れるその眼が憎い。憎い。憎くて仕方がない…」

能面のような顔でつらつらと吐き捨てる。苦しげに息をする様子に、彼女が顔も知らぬ花婿に抱かれるのを想像しようとしたが、できなかった。

「……刑部とは…」
「…しばらく会っていない」
「何故だ?」
「………」

名前が俯いた。さらりと髪が肩から胸へ落ちる。いくら男の格好をしているとはいえ、やはり女だとわかる身体。男装の麗人などと持て囃されているが、軍内では下卑た目で彼女を見る輩もいる。そういう者達の抑えになっているのが、三成と刑部だった。

「会って、言えばいい」
「………」
「嫁ぐ前に好いた男に抱かれたほうがいいだろう」

三成は彼女のことを良い友人だと思っている。この女に恋慕を抱くのは有り得ない気がしたし、躊躇われた。薄々、彼女が刑部を想っていることに気付いていたからだ。ただの女の顔をして、彼を見つめていることに。だから彼女にとっての最善のことを言った。

薄い肩が震えた。ぱた、と畳に雫が落ちる。ゆっくりと顔が上がる。頬を滑り落ちた涙が細い顎の先から滴った。

「…石田、私はお前が羨ましい…」
「……名前…」
「私は、もう会いに来るなとさえ言われたのだぞ…!」

感情があらわになり、怒りとも哀しみともいえないようにくちびるが歪んだ。声が震えている。どうして、石田は、お前は。名前が詰る。

「私は…触るなと、言われたのに…」

弱々しく呟いて、口をつぐむ。見ていられなかった。あの名前が。どんな大怪我をしても大事な部下を亡くしても、くちびるを噛み締め泣かなかった女が、一人の男に拒絶されただけで泣いた。

「…大谷が好きなんだ」
「…ああ…」
「……好き…」
「知っている」

女らしからぬ、硬い胼胝と薄い傷跡がついた手を励ますように握りしめる。存外温かい手だった。鳴咽が聞こえた。




庭に人の気配を感じた。障子の向こうから、大谷、と自分を呼ぶ女の声がして、吉継は書を読むのをやめた。するりと障子が開く。真っ暗闇から生まれたかのように、名前が室に滑り込む。白い振袖を着ていた。

「……もう来るなと言うたはずだが」
「…すまない」
「…よく、ここにいるとわかったなァ」
「石田が教えてくれた」

友人は最後の最後で妙な真似をしてくれたらしい。名前は無言で視線をさ迷わせ、膝を動かしてこちらに近付く。小さな灯に照らされた、なめらかな肌。出発は明日だったはずだ。よく抜け出せたものだと思う。嫁入り前に風聞が立たないよう、遠ざけておいたというのに。名前が赤いくちびるを震わせた。

「大谷」
「………」
「……一度っきりで、いいんだ。ほんの少しでいい…」

吉継は彼女に肌を触らせたことが一度もない。たとえ布越しであっても。徹底的に、彼女との接触を絶っている。

彼は、きれいなものは汚したくないと思っている。だから彼女に触らない。合理的だ。それに、どうせ見ているだけで満たされるから。なのに。吉継は息を吐いた。望まないことには、慣れているはずなのに。

「……どんな思いで…」

自分がどんな思いでいたか、名前にはきっとわかるまい。そろりと右手を動かす。包帯が解けた。初めて触った白い肌は温かかった。指先で赤いくちびるをなぞって、そうか自分はずっとこうしたかったのか、と彼は思った。




「……見送らなくていいのか」
「ぬしのほうこそ」

日はもう随分高くなっている。縁側の刑部の隣に座り、三成は寝不足の目を擦った。しばらくして刑部がぼそりと呟く。

「ぬしは名前を好いているのだと思っていた」
「………そうか」

そうだったのかもしれない。三成にはわからなかった。ただ、意外にも温かみのあった彼女の掌を思い出すと、かすかに目の奥が痛んだ。

「三成、名前から言伝がある」
「……なんだ」
「嫌いというのは嘘だ」
「………」

視界がゆっくりぼやけて揺れて、ぽたりと膝に水滴が落ちた。目の前がすっきりと澄んだ。嫌な女だ。私は嘘が嫌いだと、いつも言っているのに。他の男のものでありながら、友と自分をこんなにも揺らして。嫌な女だ。いやな女だ。もう、会うこともないだろう。そっとくちびるを噛んで、三成は少しだけ泣いた。





愛も体も原型をとどめないの
(110319)
title 舌

 
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