信じるというのは、裏切られてもいいと思うことだ。私は黒田を信じている。なのになぜ、私は大谷の名刺を捨てないのだろう。財布の中の小さな紙切れに眉を寄せる。黒田はまだ帰ってこない。昨日の今日だから仕方がないが。黒田がいないときは大体バスで通学している。朝早く起きなければならないから、疲れる。



校門に怪しげな黒スーツが立っていた。大谷ではない。痩せた男だ。銀髪で、変な髪型をしている。右手に小さな紙袋を持っていた。下校中の生徒たちの注目の的となっているようで、皆が興味ありげに彼を伺っている。裏門から出たほうがいいだろうか。しかし、回り道をしていたらバスの時間に間に合いそうにない。顔を伏せて早足で男の横を通り過ぎる。髪を引っ張られた。短い悲鳴が上がる。絶対に何本か抜けた。禿げたらどうしてくれる。

「北条名前だな。話がある」

二の腕を強い力で掴まれた。目つきが異常なほど鋭い青年だ。

「…違います」
「私を見ないで出て行こうとする奴が北条の孫だと、刑部が言っていた」

刑部。誰だ。ずいっと紙袋が突き出される。蝶のプリントがしてあった。…大谷か。「刑部から預かってきた」と男は続けた。

「クリーニングにも出した」

受け取って中身を見る。先日喫茶店に忘れたマフラーだった。

「……どうも」
「礼は刑部にしろ」

男は仏頂面で言う。二の腕を掴む手は離れない。まだ何かあるのか。男が歩き出した。ずるずると引きずられる。すぐ近くに窓に濃いスモークのかかった車が止まっていたことに今更気づく。最悪だ。叫ぼうとした途端手で口を塞がれた。抵抗する暇もなく後部座席に押し込まれる。最近の寝不足が祟って判断力が鈍くなっていた。反対側のドアを開けようとしたが、ロックされている。男が隣に乗り込んで来た。車がゆっくりと発進する。抑揚のない声で男が言う。

「なにもしない」
「…信じられない」
「貴様には取引を持ちかけにきた」

男は無表情だ。横顔は端正と言ってもいい。ヤクザというよりヒモの方が似合っている気がする。

「ブツは見つけた。すでに九州の大物に売られていた。取り返すために官兵衛がいる。奴とすぐに連絡をつけろ」
「は、」
「豊臣は今後一切北条のシマは荒らさない。交換条件だ。悪くはないだろう」

動揺したら負けだ。私はスカートの襞を弄る。

「…どうして私に?」
「貴様は人質だ」
「……なぜ黒田なんですか?」
「買った人間が官兵衛の旧友だった。奴なら顔が利く」

「穏便に事を済ませなくてはならない、早急に」男がぎゅうと眉根を寄せた。こめかみに青筋が立っているのが見える。

「……刑部も甘すぎる…私なら全員八つ裂きにして奪い返すのに…」

恐ろしいことを言う。直情的な人間のようだ。「条件があります」私は努めて顔の筋肉を動かさないようにした。「金か」ふっと嫌な感じに嗤って男が言う。「いいえ」

「黒田の身の安全を保証してください。傷一つ付けずにこちらに返してください」
「………」
「黒田は北条のものです」
「…あんな野良犬、好きにすればいい」

舌打ちの音が静かな車内に響く。「官兵衛には午後6時に空港に来いと連絡しろ。石田三成と言えばわかる」きぃっと車が止まる。自宅の近所の公園だった。

「いいんですか。私が警察に電話するかもしれませんよ」
「無駄だ。死体が見つかることは絶対にない」

石田はさらりと言う。この男を信じるべきか。もしかしたら黒田は私達を裏切って、その『商品』の売買に関わっており、石田はその報復を行おうとしているのではないだろうか。私はバックについた熊のパペットキーホルダーを触る。それにしても、大谷も石田も妙に急いでいる。同業者とはいえ、良好な仲とは言えない私に内情をよく話すものだ。穏便に。早急に。そればかりを重要視している。

「『商品』って、なんですか」
「……あるお方を助けるために必要なものだ」

石田の声が揺れた気がした。私は少し考えて、バックから携帯電話を取り出した。電話帳から番号を呼び出す。コール音が三回。

「黒田?」
『おお、名前か。どうした?』
「…午後6時に、」

手の中から携帯が消えた。石田が抜き取ったのだ。

「官兵衛か。私だ。今日の午後6時に空港まで来い」
『〜〜!〜〜〜!』
「一人でだ。他言無用だ。ヘマをしてみろ。この娘の命はない」

それからすらすらといくつかの脅し文句を吐いて、石田は通話を切った。携帯電話と一緒に小さな紙切れが差し出される。

「私の連絡先だ。厄介事があれば使え」

借りは返すということなのだろうか。小さく頭を下げて車から降りると、白い車は急発進した。ブランコが風に揺れている。公園の時計は午後4時56分を差していた。





月の呼吸音
(120131)


 
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