赤いランドセルには、つぶらな黒い目の熊のキーホルダーがついている。私は友人たちと一緒に校門へ向かい、そこで彼女たちとお別れをする。大きく手を振り、また明日、と声を張り上げる。ばいばい。さようなら。また明日。がちゃがちゃとランドセルが音を立てる。黒い『くまさん』が校門の前に立っていた。私を見つけると、星の描かれた小さな箱をスーツの胸ポケットにしまう。彼の足下にはたくさんの吸い殻が落ちている。どれもフィルターぎりぎりまで吸われていて、とても短い。私は少しムッとする。たばこを吸った後の『くまさん』は、私の嫌いな教師と同じ臭いがするからだ。『くまさん』は片手に楽譜の入ったバックを持っている。今日は月曜日。これからまっすぐピアノ教室にいくのだ。『くまさん』は横に私がいることを確かめて、歩き出した。私の目の前でゆらゆら揺れる彼の指先からたばこの匂いがする。

「くまさん、たばこくさい」
「ん?」
「たばこやだー」
「あー悪い!わかったわかった………禁煙か…」

がっくりと肩を落とした彼の右手がぶらぶら揺れている。私はじぃっとその手を見つめる。ちょっと小走りになって掴むと、『くまさん』の足が止まった。顔を上げる。夕日の逆光で彼の顔はよく見えない。道に迷った大きな黒い熊がぼんやりと立っているようだった。

「くまさん?」
「……うん…」

しばらくして『くまさん』は歩き出す。彼の手は大きくて温かい。

「今ねぇ、きらきら星習ってるの」
「そうかい」
「今度くまさんにも教えてあげる!」

私は上機嫌になって歌い出す。きらきらひかる、おそらのほしよ、まばたきしては、みんなをみてる…。





校門の前に立っていた不審人物に足を掛けられ、転びかかった。眉を顰めて相手を睨む。目を引いたのは、その男がしているネクタイピンだった。暗赤色の蝶が、黒いネクタイに止まっている。少し癖のある黒髪、白いマスクで口元は見えない。変わった色の眼が細められている。笑っているらしい。私は渋々相手と目を合わせた。嫌な予感がする。

「ぬしが北条名前かァ?」
「違います」

サンドペーパーで磨いて艶を出したような声だった。そのまま通り過ぎようとしたが、マフラーの端を掴まれた。喉から潰された蛙のような音がでる。

「やれ、そう急くな。ちと茶でも付き合え」
「知らない人には付いていくなと言われてます」
「ヒヒッ、さようか。われの名は大谷吉継という。…さて、これでぬしとわれは知り合いよ」

ぐいぐいとマフラーを引っ張られる。首が締まってチアノーゼ状態だ。必死にマフラーを緩めていると、男が耳元で囁いた。なまあたたかい吐息が耳朶を撫でる。

「黒田のことで話がある」
「………少し行くと喫茶店があります」

黒スーツの男はまた引き攣れた笑い声を上げた。黒田が迎えに来れない日に限ってこれか。昼休みに見たメールを思い出しつつ、私は溜め息をつく。無理にでも逃げればよかったかもしれない。



光沢のある小さな名刺には、男の名前と電話番号がぽつんと書いてあるだけだった。大谷は店の一番奥、壁を背にした席に足を組んで座る。店の入り口も窓の外も見渡せる位置だ。お冷やを持って来た店員に、「メロンソーダとコーヒー」とメニューも見ずに注文して、大谷はマスクをとった。整った顔をしている。すっと通った鼻筋。健康的な肌は傷一つついてない。彼はスーツの胸ポケットから煙草を取り出し、火を付けようとする。私は店に入ってから初めて声を上げた。

「たばこ、やめてください」
「ん?」
「ヤニ臭いです」
「喫煙席よ」

その通りだが。大谷は慣れた手つきでさっさと火を付けるとにんまりした。嫌な感じの笑顔だ。ふぅっと煙を吹きかけられる。たまらず咳き込む。肺が黒くなっていく気がする。

「ユカイ、ユカイ」
「………」
「メロンソーダのお客様」
「あ、われよ」

アンタが飲むのか。あまりにも外見に似合わない飲み物に愕然としていると、コーヒーが運ばれて来た。白いカップに指先を付ける。温かい。「さて、」大谷は灰皿に煙草の灰を落とし、形の良い唇から低い声を押し出した。

「『商品』を盗んで逃げた男がいてなァ」
「………」
「男は片付いたのだが、『商品』が見つからぬのよ」

なんのことだかさっぱり検討がつかない。私はシュガーポットから角砂糖一つ掬う。目の端に紫煙が立ち上っている。白い糸のようだ。

「……私には関係ないと思うのですけれど」
「その阿呆は黒田の元部下よ」

黒い水に角砂糖が沈む。跡形もなく消えた固体はもうどうやったって液体と分けることはできない。

「……それが?」
「組中が血眼になってブツを探しておる」

大谷は愚図る子供をあやすように優しげに笑う。慈愛に満ちた微笑みだった。煙草の長い灰がぽとんと落ちる。

「黒田はその男と連絡を取っておった」
「帰ります」

椅子から立ち上がる。テーブルが大きな音を立てて揺れた。脱いだコートを掴み、バックを肩にかける。

「待ちやれ」
「密告のつもりですか。無駄です。黒田はそんなことしません」
「まことか?」

蝶のネクタイピンが誘うように揺れた。

「…コーヒー、ありがとうございました」



店にマフラーを忘れたと気づいたのは帰宅した後だった。制服を脱いでいる途中、携帯の着信音が鳴る。モーツァルト『きらきら星変奏曲』。黒田だ。

「はい」
『名前か。小生だ』

スカートのホックを外し、ファスナーを降ろす。

『実は仕事が終わりそうになくてな…明日も風切羽に頼んでおいたから』
「別にいいわ。今日もバスで帰って来たし」
『ええっ!』
「風魔も忙しいの」

制服に煙草の臭いが染み付いている。忌々しい。





睫毛を通る流星群
(120130)


 
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