「なあ、名前さんの家ってヤクザなの?」

直球な質問である。私は脱いだ上履きを下駄箱の中に入れ、茶色のローファーを取り出してから顔を横に向けた。声の主はクラスの学級委員長だった。正義感の強そうなくっきりとした目鼻立ちをしている。彼はとてもいい人間である。現に、先程までクラスでただ一人数学の課題を提出できていない私を手伝ってくれていた。私にはこれといった友人がいない。息を潜め、あの四角い教室の隅にいる。原因は言わずもがな、私につきまとう事実と、この性格だ。そんな私を、この正義感の塊は捨て置けなかったのだろう。よく世話を焼いてくれた。でも多分、それも今日が最後となるだろう。残念なことだ。

「う、噂で聞いてさ」
「ヤクザだったらどうなの?」
「え…」
「本当よ、その噂」

ローファーに足を入れた。爪先を床でコツコツと蹴る。昇降口の扉を押す。風が吹き込んできた。とても寒い。マフラーに顔を埋める。門の前に黒いベンツが停車している。それに向かって歩き出した途端、手首を掴まれた。委員長である。顔がうっすら赤い。寒いのだろうか。私は立ち止まった。彼の顔に目線を合わせる。委員長の顔がさらに赤くなった。目がちょっと潤んでいる。一体どうしたのだろう。彼は、あー、とか、うー、とか妙な声を上げ、大きな声で言った。

「名前さん、付き合ってくれないか」





「黒田、クラスメイトに告白されたわ」

そう言うと、私の運転手兼ボディガード兼家庭教師兼その他諸々の黒田官兵衛は、大きい手でハンドルをバシバシ叩いて大笑いした。バックミラーの中の私の顔は至極不機嫌そうだ。黒田は気づかない。バカだ。

「お前さんみたいなのに惚れる男の顔が見てみたいな!」
「…そう」
「んで、どうしたんだ?」
「……断った」

黒田はまた笑った。ひいひい言っている。信号が青になった。ゆっくりと車が発進する。黒田は安全運転を心がけている。彼は本当に運がない。運転が下手な訳ではなく、当てられることが多いのだ。こんな、見るからに『その筋の人』の車なのに。ハンドルの下には、何年か前に私が修学旅行で行った、どこぞの神社の交通安全のお守りが下がっているけれど、この車は何カ所か凹みがある。

「もったいない。付き合ってみりゃあいいじゃないか」
「………好みじゃない」

彼は愉快そうだ。私はそっとバックミラーを伺う。例えば、黒田は癖のある長めの髪をうなじのあたりでくくっている。前髪も長い。でも案外目つきは鋭い。一昨日の私の言いつけを守ったのか、今日はちゃんと無精髭を剃っている。首筋はくっきりと喉仏が浮き出ていて、体は大きくて、指は太くて、声は低くて、………そういうのが、好み、だ。少し渇いたくちびるを舐める。溜め息はエンジン音で掻き消された。





黒田は、北条組と敵対関係にある豊臣組の元幹部だった。そこで何かしらヘマをして、おじいさまの命を狙う鉄砲玉にされた。そして案の定、おじいさまが雇っている始末屋の風魔に半殺しにされた。十年くらい前の話だ。私が小学校に入学したばかりだったと思う。その日は父母の三回忌だった。幹部と数少ない親戚が集まる屋敷の畳に血まみれの男が転がされ、私はひどく怯えた。おじいさまは私を抱きしめる力を強くした。男が粘着質な血を吐いた。前髪から覗く目と、目が合う。暗くて、傷ついた目だった。





おじいさまはそろそろ隠居する。私がおじいさまの跡を継ぐのだ。部下はみんな有能だから心配はない。けれど、黒田のことをよく思っていない人もいる。彼がまだ豊臣組と手が切れていないんじゃないか、と怪しんでいるのだ。これは大問題だ。だって、黒田にはずっとここに居てもらわなければならない。おじいさまも風魔も、黒田のことを気に入っているし、それに……それに、彼がいなくなったら、誰が私に数学を教えるというのだ。

「黒田、ここがわからないわ」
「へいへい。どこだ?」
「ここの問題…」

黒田は頭がいい。大学には行っていないらしいけれど、すごく賢い。なんでこっちの道に入ったのか。不思議だ。

「ああ、これはこの公式を使ってだな…」

一瞬だけ触れ合った手に肩がびくりと揺れた。黒田は気づかない。アホだ。くちびるを噛む。

「…今日、黒田のせいで残されたんだから」
「えっ、小生の?」
「……数学教えてくれるって…」

言ったくせに。約束したくせに。黒田は、そういえば!と声を上げ、ワシワシと後頭部を掻いた。

「すまん、昨日の夜は用事があってな…。小生が悪かった」
「…明日の帰り、遊びに連れてって」
「は?」
「おじいさまには秘密にしなさい」

風魔が夕飯の支度を終える時間だ。そろそろ呼びにくるだろう。参考書の上にシャープペンシルを転がす。背中にファスナーの付いた、のんびりした熊のぬいぐるみが目に入る。黒田が持って来たものだ。





風魔は取り上げたトカレフをおじいさまに渡し、足下の男を顎で示して『どうしますか?』とでも言うように首を傾げた。おじいさまはウムムと唸った。男は苦しげに息をしている。私は身じろぎしておじいさまの腕から抜け出し、男に駆け寄った。黒いワンピースの裾に血が染みた。

「ふうま、やめて!くまさんにひどいことしないで!」
「ぎゃあああー!!名前!そいつに近づくでない!危ないぞい!」
「うわあああ!お嬢!!」
「名前お嬢さん!?」

くまさん。その時の私に、黒田は熊のように見えたらしい。広間はますます大騒ぎになった。私はぺちぺちと死にかけている男の頬を叩く。何故か怖さは薄まっていた。

「くまさん、くまさん、大丈夫?」

男は大分驚いたようだった。ぽかんと開いた口からひゅうひゅうと息が漏れる。

「風魔!風魔!なんとかするのぢゃ!」
「………」

私が男に密着しているために下手なことはできなかったのだろう。手をこまねいているおじいさまたちに向かって、私は、今思えばとてつもない無茶な要求をした。

「おじいさま、名前、このくまさん好き!もらってもいい?」
「なんぢゃと!?」

おじいさまの立場からすれば、ここは風魔に始末をさせて、組の威信を表さなければいけないときだったろう。しかし、おじいさまは男を助けた。私が泣き出したからだ。こうして、黒田は私の世話係になった。私はしばらくの間、彼をくまさんと呼んでいた。くまさん、名前のくまさん…。





委員長は相も変わらず気にかけてくれた。いい人間である。黒田の『遊び』はバッティングセンターだった。なかなか打てず、疲れた。黒田は常連のようだ。スーツの上着を脱いで、楽しそうにしていた。近くのファミレスでチョコレートパフェを食べた。

「黒田は食べないの?」
「ああ」

黒田がコーヒーを啜りながらこっちを見てくるので、私は眉を寄せた。スプーンでアイスを崩す。

「食べにくいわ」
「そうかい」

隣席で、大学生らしきカップルが談笑している。健全な、堅気のひとたち。彼らに、私と黒田はどんな風に映っているのだろう。例えば、若い父親と大きな娘。年の離れた兄と妹。疾しい関係の会社員と女子高生。…わからない。黒田。黒田は、どう思っているのだろう。私のことを。高慢な上司?年の離れた妹?……わからない。黒田のことはわからない。ずっと一緒にいるのに。知りたいけれど、いつもさりげなく逃げられている気がする。
ぼんやりしていたら、黒田が机の上に何かを置いた。ブーフのキーホルダーだ。赤いハートのチャームがついている。

「…なに?」
「可愛いだろ。最後の一個だったんだぞ」

黒田は得意気に言う。こちらにキーホルダーを差し出す手はゴツゴツしてて、あの正義感の強い委員長とは全然違う。おじいさまとも風魔とも違う。黒田の手は無骨だけど、壊れた玩具を直すくらいには器用だ。それから、両手首に変な黒い痣がある。酷い目にあったときについた、とだけ聞いたことがある。黒田は昔の話をするとき、すごく暗くて冷たい目をするので、私はそれ以上聞かなかった。聞けなかった。

「黒田」
「ん?」
「…ありがとう」
「おう」

黒田は本当にバカだ。私は別に熊なんて好きじゃないのに。彼のおかげで、私の部屋は大分可愛らしい感じになっている。もらったキーホルダーを鞄に付けると、黒田は満足そうに笑った。人の良さそうな顔になる。ヤクザなのに。変なの。私もちょっと笑って、パフェのコーンフレークを掬った。
名前のくまさん。ずっとずっとそばにいて。




夜へ向かう旅人
(120105)


 
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