小説
男主

死んだ魚のような目と身体の人間がいたのだ。その男はせっかく最初から正しく人間であるのに、あまりにも冒涜的な生き方をしている。

どうしようもなく胸の中がむしゃくしゃしていたことも強く作用して、いつもならそんなことはしないのに、激情の赴くまま夢の鏡を取り上げてやろうとその萎びた男を磔にした。別に、鏡を奪うことなんてできないし、たとえ奪えたとしても、その後に自分のものにできるわけでもないのに何もせずにはいられなかった。

うら若く夢に溢れたおとめ達はこうするだけで泣き叫び、やめてと懇願し、時には気さえ失うというのに、男は小さく「うぅ」と呻き声を上げただけ。そんな男から引き摺り出された鏡は、想像通りの薄ら濁った色をしていて、反射的に「はっ」と鼻で笑ってしまう。

それは、汚い色を嘲るための意味と、こんな男にも鏡はあるのだという、羨ましさを書き消すための意味を含んでいた。

フィッシュ・アイの声に反応するように男は鎌首をもたげた。きっと大した夢がない人間は苦しむ量も少なく済むのだろう、生きているのかも死んでいるのかも分からないのに気は保っているようだった。もちろん今まで手に掛けてきた人間よりもマシというだけで、苦しんでいることには違いはないだろうけれど。現に男は鏡を弄り回されるときの苦しさから顔を歪めていた。

潜められた眉、付随して細められた視線が、フィッシュ・アイの存在の輪郭を辿る。八つ当たりを咎められているような気がして、それが惨めで、まさに八つ当たりだと言わんばかりにフィッシュ・アイはその男に向かって情けなく叫んでいた。

「そんな風な生き方しかできないなら全部僕にくれよ…っ!」
「…………ぼく?」
「僕ならもっと大切にするのにい……!!」

感情が不安定だったからと自分に言い訳をして。フィッシュ・アイはボロボロと涙をこぼしながら、鏡の枠を握り締めたまま、男を罵倒する言葉を連ねていく。罵倒といっても、それはもはや癇癪を起す子どものソレでしかなかったけれど。

「ばか、ばか、ばかばか」
「………あげる、」
「……え?」
「ぜんぶ、きみにあげるよ」

フィッシュ・アイが握り締めていた鏡は、いつの間にか美しい夢の色へと変化していた。目にしたためしがない現象に驚愕し、涙も引っ込んだフィッシュ・アイが慌てて男の鏡に頭を突っ込んで覗き込む。その際、男は「あふんっ」と自分のとは違うベクトルの情けない声を上げて身をよじったことに気が付いたがそれどころではない。

「え、ええ!?なに、これ……っ」

しばらくしてからフィッシュ・アイはずるりと頭を出す。その顔は湯気が出るほどに真っ赤になっていた。夢の鏡で何を見たのか、それを知るのはフィッシュ・アイだけ。





死ぬことを考えていた。仕事は絵に描いたようなブラック企業だし、誰もいない家に帰るたびまざまざと感じる孤独は俺の大事なものを荒々しく削ぎ下していく。毎日が辛くて価値を見出せなくて、もういいや、と諦めの気持ちを胸に橋の上で立ち尽くしていた。さあ飛ぶぞと意を決したところで水を差す何か。女の子だ、それもくそ可愛い……。
満足に飯も食えていない睡眠もとれていない社畜には到底抗えない力で両手両足を掴む美少女。

(――こう立ち位置的に、両手両足を掴む何かと目の前の美少女が同一であるわけはないのだけど、この時は頭が回っていなかった)

鬱憤を吐き出す、己の自殺を止めた美少女……いや、途中で何となく察したが実は多分おそらく美少年。そんな彼をまじまじと見ながら、いくらでも俺に吐き出していいんだよ、とさっきまで自殺をしようとしていたことは棚に上げて静かに話を聞いていた。

そのはずなのだけど、いつの間にか雲行きが変わっていって、気がつけば目の前の美少年に全部僕にくれよ大切にするから!と泣きながら欲しがられていた。そんな状況に、ああ、もうちょっと生きててもいいかもしれない、と俺は思ったわけで。

男主とフィッシュ・アイの同棲生活へ発展する

210213
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