小説
オカルト要素

幼い頃の甲斐は今以上のロマンチストだった。特に海にまつわる逸話には敏感で、その片鱗を探すことに熱心で、そして一端に触れると、必ず幼馴染の木手に報告という名の内緒話をした。

人魚を見た。

興奮したようにそう話す甲斐に木手は溜息をつく。ロマンチックと言えば聞こえが良いが、夢見がちで甘い性格は、甲斐の弱さに直結していると思えてならない。木手は甲斐が妄言を吐くような人間ではないことは承知しているものの、熱に浮かされる様子の甲斐に一種の懸念を抱く。それは不器用な木手なりの、幼馴染への憂いだったのだ。岩か波か、それか大きな魚と見間違えたんじゃないかとか、そもそも人魚などいるわけがないとか、その空想的な部分は何とかした方が良いとか。あえて甲斐が傷つくような物言いで伝えた。
一方で甲斐は、いつものようにお座なりながらも「いつか会えると良いですね」と言ってもらえると思い込んでいた。甲斐にとって木手の声色は、絶対的で、だけど相手を安心させてくれるもので、どれほどぞんざいであろうとも木手が自分の言葉を肯定して背中を押してくれるだけで嬉しかったし、その通りに信じることができた。
それがここへ来て初めて、完膚なきまでに木手の言葉に叩きのめされてしまう。甲斐はひどく傷ついたような表情を見せた。木手はもう少し言葉を選べば良かったと思いつつ、それでも言ったことは本心でその点に後悔はないと思った。



甲斐は自分自身が幼稚で、もうこんな妄言染みたことを言っていられる年でもなくなってきていることが分かっていたし、だから、木手が自分を心配して言ってくれたのだということも正しく理解していた。去り際の木手のきまりが悪そうな顔からも、言い過ぎたと後悔しているのだろうと思う。だけど、

「面と向かって否定されるのはつらいやっさー」
「何がつらいの?」
「うわあ!?」

1人しかいないはずだったから独り言として吐き出した。誰かに聞かれるなんて思いもよらなくて、甲斐は驚きで声をあげてしまう。

「やーた〜やが!?」
「???」
「“お前だれだ!?”っつったの」
「ナマエだよ!君は?」
「わんは裕次郎」

名前を聞いたわけじゃないんだけど、と甲斐は思ったが、ナマエがあまりにも屈託のない笑顔を見せるのでどうでも良くなる。

「裕次郎、それで何がつらいの?」
「やー、距離感どうなってんばー!?」

ナマエは岩べりに座る甲斐の隣に腰を下ろした。汗ばむ二の腕がピタリとくっつく距離で。甲斐は上半身を仰け反らせたが、ナマエには移動する気はないようで、横の髪を耳にかける仕草をした、ナマエなりの話を聞く体制なのだろう。ナマエの耳たぶにぶらさがる、琉球ガラスと貝殻で作られたイヤリングが揺れた。その光景に甲斐は目を奪われて、思わず「……キレイさぁ」とつぶやく。――もしも。もしも人魚姫がいたら、この子みたいな女の子だと良いな、と甲斐は思った。

「……人魚がいたらいいなと思ってたんだよ」
「うん」
「けどいるわけねぇやっし。勝手に悲しくなっただけ」

そう、ただ悲しくなっただけなのだ。幼馴染に否定されたことも、人魚なんていないんだと認めてしまうことも。ついて出る言葉の数々は自分の想像以上に情けなかった。初対面の女の子に何を話しているんだろう、いや初対面だから話せるのかもしれない。

「裕次郎、人魚姫のお話知ってる?」
「当たり前やっし!」

人に恋した人魚姫は、声と引き換えに足を手に入れて人となる。けれど王子の愛を手に入れることができなかったので、魔女の警告どおりに泡になって消えてしまう。この話を知った時、人魚を見つけられないもどかしさにやきもきしたし、恋愛の何たるかを微塵も理解していないのにナイフを選ばない人魚にある種の尊さのようなものを抱いたことを覚えている。

「人魚姫はお話できないんだよ」
「ぬーやが…急に、」
「人魚はきっといる!って話」
「じゅんに?」
「うんっ!だけどね、」

ナマエの声がやけに小さくなったので、甲斐はどうしたんだろうとナマエの方へ顔を向けると、ナマエの顔が甲斐に近づき唇と唇とが触れ合った。甲斐はナマエの大胆すぎる行動に、動くことができなくなるほど驚く、心臓だけはばくばくとうるさいほどに脈打つ。

「裕次郎の人魚さま、私が殺しちゃった」



木手と別れた後、甲斐は高熱を出し三日三晩寝込んでいたらしい。それからナマエを探したけれど、旅行客だったのだろうか、ナマエという少女なんてもうどこにもいなかった。
熱さの引いた唇を手でたどれるようになった頃、甲斐は思い出す。人魚姫に出てくる王子は自分を救った女性を隣国の姫だと間違い続けて、その間違いに気が付けない。それは残酷で滑稽で、でも仕方がない、王子にとって隣国の姫が本物なのだから。王子と隣国の姫が幸せになってゆく傍らで、人魚はひとり海の泡になる。沖縄の海が時折はきだすあぶくを、その美しさを甲斐はよく知っていた。

200625
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