小説
夢主視点

「氷室先生……!」
「君は……ミョウジか。来ていたのだな」

人混みの中でもすぐに見つけられた。年中スーツ姿だったが今でもそのルールを守っているようだった。先に生きる者として生徒に正しい姿を見せる、この人らしいルールだと思う。
髪型が少しだけ変わっていて、以前は隠れていたはずの額が見えることに思わず胸がときめいた。良かった、お化粧をしていて。そうでなければ見るに堪えない真っ赤に火照った顔が晒されていたことだろう。

「はい!覚えていてもらえて嬉しいです。瑞希さんも一緒なんですよ」
「須藤もか。確かパリに行っていたと記憶しているが……帰国していたのか」
「はい。ちょうど学園祭の時期だったので学園がどんな様子か気になってですね……」
「……本当に、久しぶりだな。6年前か、君たちが卒業していったのは」
「……」
「どうした?」
「ふふ、本当に覚えて貰えていて嬉しいんです」
「君たちの学年は本当に手を焼く生徒が多かった……それに君は……」
「はい?」
「いや……君は今一流の大学院に通っているのだったな。就活中か?」
「ちゃーんと内定もらってますよ!」
「楽器は続けているのか?」

氷室先生との接点といえば、担任と生徒ということ以外に部活の顧問と部員という関係も大きかった。在学中の3年間、吹奏楽部でみっちり扱かれたことは私の高校生活の中の思い出の大部分を占めると言っていい。厳しい指導ではあったけれど、演奏での達成感や喜びは何にも代えがたいほどだった。
それに私は氷室先生に尊敬とはまた別の感情を抱いていた。だから3年間の部活は本当に幸せな時間だった。大学へ進学してからも、どこかで氷室先生の影を追っていたのか楽器はずっと続けていた。もちろん楽器が好きというのもあるけれど。

「えーと……はい。オーケストラ部の方でやってます」

周囲はレベルが高くてついていくのがやっとだった。何度もやめてしまおうと思ったのに、それでも高いレベルを目指すその姿勢や過程に氷室先生の面影を見てしまって、ある種の意地にも似た衝動が赴くままいつの間にか6年間が経っていたってだけの本当にどうしようもない理由で。

「……大学祭での演奏は見事だった」
「……え?」
「後輩たちの演奏は聴いていくのだろう?」
「え、あの、はい!も、もちろんです!今日一番楽しみにしてますもん!」
「そうか、開演までもうすぐだ。良い席で聞くように」
「は、はい!」

そう言い残して氷室先生は音楽室の方へ去っていた。氷室先生の発言は予想の範囲外で脳の処理が追い付いていない。私はちゃんと受け答え出来ていただろうか。氷室先生は言葉通り吹奏楽部の演奏の順番が近いから準備に行くのだろう。氷室先生の背中を見送りながら停止しかけていた思考を働かせる。気がつけば置いてけぼりにしていたはずの瑞希さんが隣にいた。いつもならプリプリ可愛いお小言の1つや2つ言いそうなところなのに瑞希さんは何も言わずにいてくれた。

「どうしよう瑞希さん……氷室先生、大学祭見に来てくれてたんだって……」
「……来て良かったわね?」
「うん……!本当に一緒に来てくれてありがとう……私、もう少しだけ頑張ってみたい」

高校生のときの私は、迷って恐れて躊躇して諦めてしまった。手にした扉は確かに開いていたはずなのに、最後の一歩が踏み出せなかった。出しかけて戻した一歩は宙に浮いたまま私はどこにも行けずさまよい続けていた。

(130403/)
- ナノ -