すみれの恋

 伊賀崎孫兵という少年には、よく分からないところがあった。
 常ならば、此方を見てはすぐにその眉を顰める。それは自分も同様。皮肉めいた言葉を投げる相手に、文句を言ってやるのは挨拶と似たようなものだ。それなのに。

 またか――、
 三木ヱ門は内心で小さくため息をつく。先ほどすれ違ったその顔は、ぴくりとも反応しないばかりか此方を一瞥もしないのだ。静かな色を湛えた瞳は、何を見るのだろう。揺らぐことなく正面を見据えている。
 このような彼は以前にも何度か見た覚えがある。それだからなのだろうか。分かってしまうのだ。“また”だ、と。どうやらまた面倒を抱える羽目になりそうだ。三木ヱ門は心にもないことを胸のうちで呟く。それから、再び息を吐いた。そうしてふと見下ろした傍らには、すみれの花が揺れている。そう、もう春も半ばなのだ。三木ヱ門はそっと屈み込むと、花弁をちょいと指でつついてみる。当然のごとく、美しい紫の色は何も語ろうとはしなかった。







 そうして、その晩のこと。
 どうしてこうなってしまうのだろう。三木ヱ門は唇を少し尖らせた。それというのも月ものぼってしばらくたつ頃合いに、予見したそれがやってきたからだ。無言で開けられた長屋の引き戸に驚きもしなかったくらいである。
 ところで、いつの間にこんな状態になったのだろうか。というのも無論、背後からきゅうと抱きついてくる存在のことだ。首にまわった腕は、とうに互いの温度を覚えていた。どれほどこうしていただろうか。それを忘れるほどであるというのに、どちらも口を開こうとはしない。部屋のなかは、しんとした静けさに包まれている。

 ――しかしながら、どうしてこうなるのかな。三木ヱ門はもう何度目かの疑問をくるくると内心で繰り返す。この後輩がこうして自分のところにやってくるのが、今ではすっかり予見できるようになってしまった。回された腕も、子どもじみた執着も、不本意ながら嫌なものではない。人間よりも毒虫を好むと思われがちなこれも、自分の前ではこうして年相応に甘えることもある。その特別を嬉しく思わなかったかといえば、嘘だ。

 そんなことに気を取られていたからか。後ろからぐいぐいと体重をかけられているのに気がついた時は既に、ぺたんと床に伏すことになっていた。三木ヱ門は上体を少し捩ると「なに、」と文句を言いかける。
 自然、乗り上げるかたちになった後輩は、三木ヱ門の肩に頭を擦りつけ、かぷりと項を甘く噛む。まるで獣の子ような仕草に、三木ヱ門は少しばかり顔をほころばせた。

「……いいでしょう?」

 耳元で囁かれる。
 何がいいでしょう、なんだ。いつも勝手ばかりして、今さら。
 言い返してやりたい気持ちとは裏腹に、素直に頷いていた。日ごろ生意気な口をきく後輩が、こうして自分を求めてくるのはなんともかわいらしいではないか。
 隙間からさした月の明かりに相手の顔を見れば、瞳は閉じ、眉は小さく寄せられていた。一体、何を憂うのだろう。これは。もう、行くあてなどどこにもないというのに。

「これ」

 三木ヱ門が拾って後ろに差し出したのは、紛れなく昼間見た紫の花。摘んで帰ってしまった一輪が目に入った途端、無意識に手を伸ばしていた。こうするつもりなどなかったのだけれど。
 唐突な行動に、相手は目を丸くした。ぱちくり、と一度まばたきする姿は普段よりも幼く映る。けれども、それも一瞬のこと。どこか大人びた柔らかい笑みを浮かべてそれを受け取った。

 ――ああ、やはり。

 その手に咲く紫は、彼にとても似合いの色に思えた。昼間の姿に比べ、月の光に照る花もまた、悪くはない。小さく口の端をあげてみせる。それにも向こうは気がついていないだろうけれど。

 月明かりがあまりにも眩しい。甘やかな香りへの期待に、三木ヱ門は思わず、きゅっと瞳を閉じた。


end...





[ prev / next ]
「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -