Daydream future

「田村先輩――、」


 聞き馴染んだ後輩の声が、三木ヱ門を呼んだ。
 それは、ユリコとの散歩の道中。顔を合わせれば、互いにいちゃもんをつけあう事こそあれど、こんな風に呼ばれるのは初めてかもしれない。
 こんな時まで、わざわざ言わなくてもいい言葉を投げてしまうほど幼稚ではないつもりだ。三木ヱ門は顔だけ振り向いて、「なんだよ」と短く返した。



「田村先輩」



 再び、名を呼ぶ後輩を見やれば、何か違和感がある。何だろう。立っていたそいつを、じろりと見渡して。そうだ、と合点がいった。今日はいつも首に巻いているはずの、毒蛇がいない。
 三木ヱ門は、くいと身体全体をそちらに向けてやった。いつにない、真剣な瞳が、まるで射抜くようにこちらを見つめている。決して逸らそうとはしない。



「なに、」


「先輩……僕は、」



 三木ヱ門は、ピクリと身を固めた。まるで、時が一瞬止まったかのように感じられたからだ。音も動きも、全てが止まった静かな世界で、その言葉だけが、やけに大きく響いた。


「僕は、先輩のことが好きです」



 え――、



 ざあ、と吹いた風の音で、時は動いているのだ、と知る。
 ぞわぞわと、足元から何かが這い上がってくるような感覚。その言葉の意味を受け止め損ねたまま、三木ヱ門はその瞳を見つめる。先ほどまでと何も変わらない、まっすぐな瞳。

 普段あんなに、ケチをつけてくるくせに。会えば文句ばかりで、不機嫌そうな顔を見せているのに。私のことが、好き?そんなことを伝えにくるって……、それって……、

どういうことだろう。


 問いかけようとした矢先、世界は真っ暗な闇に包まれていた。深い深い、水底のように。冷たくて暗い。
 闇の中で、後輩は儚げに笑ってみせる。その口元がゆっくりと動き出す。声は発していなかったけれど、伝わった。


“さよなら”


 何だよ、まだ聞いていないのに。私は何も分からないままなのに。行く前に、その答えを教えろよ。その言葉の意味を――、
 三木ヱ門は、必死に手を伸ばす。届きそうだ。きっと、届く。近付いて、掴みかけたそれが、消えてしまいそうになって、三木ヱ門は叫んだ。


「待てよ!」







 手を伸ばし、ガバッと上体を起こす。空を掴んだ手。そこには何も、ない。
 そこは、いつもの長屋で、いつもの布団の中だと分かった。


(……夢?)


 夢に違いなかった。けれど。
どうしてあんな夢を見たのだろう。
 三木ヱ門は握り締めた手を開いて、その手のひらをじっと見つめる。少々、汗をかいているようだった。
 やけに現実味を帯びた、夢。
 何故、よりにもよってあいつが、あんなことを。私のことを“好き”なのだ、と言う。あれは一体どんな意味だったのだろう。

 夢というのは時として、おかしなものだ。だから、今回も、たまたま変な夢を見たのだろうな、と思う。
 三木ヱ門はそれ以上に気にすることは止めて、朝の支度に取りかかることにした。




 ――けれど、夢はそれで終わらなかった。
その晩もまた、同じような夢を見た。ただ、今度は一度体験したためなのだろうか。今は夢の中にいるのだ、となんとなく分かるようになっていて。


「田村先輩……」


 昨日見た夢と同じで、切ないようなその声がにわかに聞こえた。夢の中の伊賀崎だ。そう、本当の伊賀崎は、こんな風に、私を見たりしないから。
 三木ヱ門は、昨日の夢と同じように、ユリコと共に散歩をしていたようだった。向かい合って、次の言葉を待つ。

 また、同じことを言われるのだろうか。その意味を問うことは出来るのだろうか。



「先輩」


(あ……、)


 ――どうして。

口にしかけたその問いは、一体何に対するものだったろう。



 三木ヱ門は大きく瞳を開いた。ゆらゆらと、視界が揺れる。孫兵はゆっくりと近付いてきて。気がつくと、その腕に抱かれていた。平素の後輩とは思えないほど、それは暖かくて、優しい。孫兵は三木ヱ門の耳元で、小さく言った。



「……好き」



 これは夢。知っているのに、身体中が、沸騰してしまったかのように熱い。名を呼ぼうとするのに、それは叶わないまま。動くことすら出来ない。じり、と小さく胸が痺れる。


(また、だ)


 気付けば、そこは真っ暗な世界。
囁かれたのは、昨日と同じ、最後の言葉。

「さよなら」

囁いた彼に、届かないことはもう、知っていた。
この手も。言葉も。







 それから毎晩のように、この夢を見た。

 夢の中の孫兵は、三木ヱ門に好きだと告げる。言い方が少しずつ変わっても、それだけは変わらない。その孫兵の目が、あまりにもまっすぐだから。三木ヱ門は、振り払うことも、受け入れることも出来ないままに、告げられるのだ。「さよなら」と。
 三木ヱ門は、悩み始めていた。夢には深層心理が表れるとも聞く。当初こそ、偶然だと思っていた夢だが、何らかの意図が関わっているのではないだろうか。

 例えば、私があいつを好きだ……、とか。
考えてから、それはないだろうと否定する。三木ヱ門にとって、伊賀崎孫兵は生意気な一人の後輩に過ぎず、それは何らの特別な意味を持たない。ならば、何か別の意味が込められているのだろう。けれど、いくら考えても結論は得られなかった。

 日常に支障があるわけでもないのだから、もう気にするのは止めよう。初めてこの夢を見た日のように、そう決め込んだ。


 一方、現実の孫兵とは、こちらから避けているわけでもないのに、てんで姿を見かけない。こんな夢を見るようになったから初めて意識したのであって、今までもそんなに顔を合わせることが多かったというわけではないのかもしれない。そう、思っていたけれど。



「――あ。」


 そんなある日、とうとう孫兵と突然鉢合わせしてしまった。
 思わず声をあげたのは三木ヱ門で、孫兵は平然とした顔をしてそれを見ていた。それも当たり前だ。あの夢は、三木ヱ門が一方的に見ているだけなのだから。
 三木ヱ門はそれに気がついて、こほん、と咳払いをひとつ、視線を逸らして誤魔化した。


「……なんですか」


 どこか迷惑そうに孫兵は答える。
そう、夢の中の彼とこいつは違うのだ。分かってはいたけれど、胸が衝かれるのは何故だろう。
 別に、孫兵がどうこうと言った問題ではない。あの夢で、好きだと告げられることに、特別な意味や感情など無いのだから。三木ヱ門は思う。
 それでも、今まで自分を求めていてくれたものから急に突き放されたような感覚は拭えない。
 ギリ、と無意識に小さく歯を軋ませる。


「お前が……、」

「……え?」


 言いかけた口を、閉じる。
自分は何を吐き出すつもりでいたのか。
あんな夢は偶像に過ぎなくて、こいつに何を言おうと仕方がないことなのに。


「何でも……、ない」

「そうですか」


 孫兵は、それ以上に関心はないらしく、ふい、と背を向けてしまう。


 ――ほら、違うのだ。


それなのに、その晩も、三木ヱ門は夢を見る。







「田村先輩」



 毎日のように聞いた、その声。薄ぼんやりとした視界に、目をこする。そうして、はっきりした世界。今では、すぐに確信を持てるようになっていた。ここは夢の中。



「先輩、好きです」



 いつもの言葉。今までと何も変わりはしない。優しくて、愛しいものを呼ぶように放たれる告白。三木ヱ門に何らかの思いがあるとしたら、それは困惑だけだ。告白をされたことの。こんな夢を見ることの。
 そう、以前ならそれだけだったのに。


「……もう、やめろよ」


 低く、呟いた。
 夢の中の彼は目を見開き、驚いたような顔をして三木ヱ門を見る。初めてだ。この夢の中で三木ヱ門が言葉を発するのは。これまでも、口をきこうと思えば出来たのかもしれない。だからこれで、もう終わりにしよう。


「頼むから……、もう、聞きたくない」


“それ”


 孫兵は何も言わなかった。無表情に三木ヱ門を見つめている。
 その瞳は何を思うのだろうか。感情がぐしゃぐしゃになって、複雑に絡まりあう。それから、こんな風に振り回されている自分が、滑稽で、馬鹿みたいだ、と苦笑する。


「どうせ、お前は私のことなんかどうでもいいんだろう」


 言ってから、自分は何を言っているのだろうかと、思う。けれども一度ぶつけた思いは、止まることを知らなかった。

 この感情はなんだろう。
夢の中で私を惑わす彼への怒り?
こんな風に狂わされる自分への悲しみ?
分からない……分からない、違う、あいつとは違うのに。これは、夢だ。私が勝手に見ただけの夢……、それなのに。


「夢の中まで私を嘲りにくるんだろう」


(――違う、)


「そうやって内心では馬鹿にしている」


(“彼”の眼は……)


「本当は私のことなんか、」


 言いかけたそれを、これ以上紡ぐことは叶わなかった。
「……え?」と些か間の抜けた声があがる。

 抱きすくめられていた。

いつかの優しいそれではなく、痛いぐらいにきつく、熱い腕の中。


「……何でだよ」


 瞳を伏せて、問う。
とうとう問うことが出来たその瞬間に、夢の少年は答える。


「僕は……、あなたが欲しい」


 彼の苦しそうに言う言葉が、きつく抱き締めるその腕が、拒むことを躊躇わせる。
 それでも知ってしまっている。これは夢。
 三木ヱ門は手を強く握りしめる。手のひらに、強く食い込ませた爪の痛みすら感じない。なのに。この胸を襲う痛みは、一体なんなのだろう。
 孫兵は、つと顔をあげる。互いの眸が交わった。そうして、彼は笑みを浮かべる。


「先輩、みて……?」


 指差す空を、言われるがままに向くと。
そこには虹が浮かんでいた。三木ヱ門は反射的に、美しい、と思った。空が光を帯びてゆく。


(あ、)


 ――分かったのだ。

 これは、夢の終わり。
少年は三木ヱ門に何かを伝えようとしている。


「さようなら」


 これで本当の終わりなんだ。その笑みを見て、悟る。
私が、望んだから?いや、それは本当に私が望んだことだったのだろうか。


「……待っ、」


 いつもとは違う夢の結末に見たそれは、虹の朝と、少年の瞳に映り込んだ夜であった――……








「あれ……田村先輩、起きちゃったの?」


 くすくす、と笑う少年の声。
先ほどまで聞いていたそれと同じだ。

 三木ヱ門は、うっすらと目蓋を開けた。ぼんやりとした視界を、何とかはっきりさせようと、辺りを見渡す。ここは、どこだろう。どうやら、長屋の布団の中のようである。ただいつもと違うのは、枕元で楽しそうに笑う少年の姿。


「まだ、夜中ですよ」


 どくどくと頭の中が脈打っている。意識はあるけれど、何だかほわほわとしていて、上手く何かを考えることが出来ない。口を開くことすらままならなかった。


「これ、慣れてきちゃったんですかね」


 そう言って孫兵が取り出すのは、小さな紙包み。

 ……なんだろ、それ。
聞きたいと思うのに、口は、上手く動いてくれない。小さくぱくぱくと開閉を繰り返すばかりだ。


「ま、でも、もう必要ありませんよね。だって……」


 もう、夢か現かも分かっていないんでしょう――?


 三木ヱ門はこくりと頷く。
現実のように感じるのに、醒めた今でも、ここに感じるのは、夢の中の孫兵だ。
分からない。夢が現実に出てきたのかな。それとも、私はまだ夢を見ているままなのだろうか。


 にこ、と笑った後輩は、するりと三木ヱ門の唇をなぞる。


 ――ああ、これはやはり“彼”なのだ。
 もう会えないと思ったのに。


 酷く安堵する。
何度となく見た夢の続きが、今、分かるのだから。


「先輩、かわいい」

耳元で優しく囁かれた、言葉。
これが夢なのかどうかなんて、もう知る術はないけれど。


「もらっても、いいですか?」


 いつもと同じだ。“彼”を拒むことなんて、出来やしない。三木ヱ門はただ、ひとつ、頷いてみせた。孫兵はやんわりと微笑む。

 ――どうしてこうなったんだろう。
ぼんやりとした頭の片隅で考えるけれど、不思議と嫌な心地はしない。
きっと、もうどこかでは分かっていたのかもしれない。夢とか現実とかそんなのは関係なくて、望んでいたものは……、


 いつの間にか、近付いてきた唇。
触れた瞬間にやんわりと溶け合って、意識は宙に浮かぶ。


 果たして、このいたずらな夢は現へと繋がっていたのだろうか――。


それは、夢の少年、ただ一人だけが知っている。




――Daydream future――




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