こい、こがれる。

 森を駆けると、風が頬を掠めてゆく。今日はまた一段といい心地だ。すっとした空気が身を包む。もうすぐ森を抜けようか、というときに待ち人の姿は見えた。この森でひときわ高い木の枝の上。孫兵はその隣にすとんと腰をおろした。

「お待たせしました」

「ん」

 てっきり文句を言うものと思っていた待ち人、三木ヱ門は短い返事をしたきりで、こちらを一瞥もしない。孫兵は見つめる視線の先を同じように追った。

「……綺麗ですね」

 眼前には、なんとも鮮やかな一面の花畑が広がっていた。色鮮やかな海をひらひらと蝶が泳いでいく。幾つもの色が重なり合って目を奪われてしまう。こんな時分だというのに日の関係だろうか、ひとあし早い春がそこにあった。
 この景色を見せたかったのだろう、三木ヱ門はへにゃりと笑った。まるで自分のことを褒められたかのように、「だろ?」と自慢げに言う。
 意外と――なんて本人に告げれば怒るだろうが、情緒を解するこころを持ち合わせているものだな、と孫兵はこっそりと微笑を浮かべた。火器にしか興味がないようなこの人が。
 そこまで考えてから、はて、と思う。

「今日は石火矢は連れていないんですね」

「当たり前だ、こんなとこまで連れられるか」

「ですけど。なんだか久しぶりだなって」

 田村三木ヱ門と言えば、傍らに石火矢。そんな印象があるほどで。こうして手ぶらでいるところを見るのは、本当に久方ぶりに思えるのだ。何だか新鮮にすら感じる。

「そうか?お前だって、今日はジュンコはいないのか」

 そう言われてから、初めて気がついた。孫兵だっていつもジュンコを連れているし、いない時は彼女を探している時だ。いつもなら首元が寂しくてたまらないのに。今日はどうしてか、自分から散歩を許していた。

「なんだか、逢い引きみたいですね」

「逢い引きって……お前な……」

 呆れたような顔を見せる三木ヱ門。けれども、改めてここには二人きりなのだ、と思えばとくとくと胸がなって、隣にまで聞こえてしまいそうなのだった。照れを隠すようにして前を向く。なんでもないような顔で話を戻そうと試みた。

「先輩は、火器が本当に好きですもんね」

「……ああ。怖い、けどな」

 はっとして隣は見れば、思いがけない真剣な横顔が覗いていた。何気なく発したそれだったのに、返ってきた「怖い」という言葉に、驚いて目を見張る。
 さあ、と柔らかな風が花弁を揺らしてゆく。蝶はゆらゆらと身体を浚われ、不安定にたゆたう。
 孫兵は何も言えず、その横顔を見守っていた。かけるべき言葉が分からなかったから。言葉を発してはいけないような気がしたから。開きかけた口を、ぎゅっと引き結ぶ。それを見かねたのか、三木ヱ門がおもむろに口を開いた。

「はじめはさ、ただかっこよくて、楽しくて。それだけだったんだ」

 でもさ、と三木ヱ門は頬杖をつく。

「これって、戦の道具なんだよな。人の命を奪うための……って。そう思ったら急に怖くなって」

 しばらく触れられないこともあったのだという。常に石火矢を傍らに連れているようなこの人が、だ。けれど、その気持ちは何となく分かるような気がした。だからであろうか、孫兵にこんな話を聞かせてくれるのは。
 三木ヱ門は、ふと空を見上げる。まっすぐな、曇りのない瞳で。平常垣間見ることのないそれは、とても美しくて、眼が離せそうにない。そうして見惚れているうちに、その色はちらりと此方に向いた。

「でも、怖いって思えなくなったら駄目なんだ」

 分かるよな、と言うかのように。射抜くような深い赤が、真剣な色を湛えている。孫兵は深く頷き返した。
 毒虫は臆病な生き物だ。だから、毒という武器を纏い、何者も寄せ付けない。本当は孤独で寂しがりなのだ。孫兵は、そんな彼女らと共にありたいと望んだ。その毒が、自らを滅ぼすのだと思うと、怖い。けれど覚悟があるから。それでも好いているから。だから隣にいられる。きっと違っていても、同じことだ。
 孫兵が頷いたのを見るや、途端に三木ヱ門はすとんと肩を落とした。

「……しっかし、情けない話でさ」

 先ほどまでの表情を崩し、ため息をついてみせる。眉を寄せ、困ったような顔でくしゃりと笑った。

「ここ最近、その怖いっていう気持ちが一段と強くて」

「実は、僕もそうなんです」

 だから、今日も自由に散歩させているつもりで、彼女たちから逃げてきたのかもしれない。自分勝手な話だ、と自嘲する。
 お前もか、と三木ヱ門は唇を軽く尖らせた。その拍子に明るい髪がさらさらと肩に零れ、思わず目で追ってしまう。

「……どうしてでしょうね」

「さあ、この世に未練でもできたかな」

 おどけたような口調に、笑って嘯く。はてさて、どんな未練ができましたことやら。
 その刹那、けれど長い時間のことのようにも思われた。しんとした空気に、風の音だけがさあさあと響いている。 自然と二人は互いに向き合って、静かに口を合わせていた。一度ばかりでは別れるのが惜しくて、幾度も触れあって。孫兵は肩に落ちた髪を指で梳くと、今度は頬を優しく撫ぜる。色鮮やかな花園のなかで、ひときわ輝く宝石のような赤。長い睫も、可愛らしい唇も。このひとを構成するすべてが愛おしかった。
 今度こそは胸の音ばかりか、浅い呼吸も、余裕のない表情も、みな向こうに伝わっているだろう。それでも構わない。見ている者は、春に舞う踊り子たちだけなのだから。


 ――ああ、怖い。こわい。
 自らを崩壊させてしまう君が恐ろしくて、恐ろしくて仕方ない。それでも乞う、触れていたいと。

 みっともないくらい懸命に、僕たちは。




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