▼ ぼくのすきなおと
月もようやく顔を出せるほどに薄暗く空が染まる頃。
長い一日も終わり、三木ヱ門が自室で暇を持て余していた、そんな折のことだった。
火器に関する本でも開こうかとしたところ、とんとんと戸を叩く音が聞こえたのだ。三木ヱ門が在室を告げると、「失礼します」という声とともに、戸がゆっくりと引かれる。
三木ヱ門は、珍しい客だと思った。そこには、何やら神妙な面持ちをした孫兵が立っていたのである。わざわざ長家を訪ねてくるとは何事だろうか。
「何か……用事でもあったのか」
窺うように尋ねたそれに、返答はない。口は引き結ばれたまま、孫兵は中に踏み入れると、律儀に後ろを向いて戸をするすると閉めていった。ぴたりと戸を合わせると、孫兵は座り込んでいた三木ヱ門のほうに向き直る。そうして、しばらく黙りこくっていたかと思うと、ようやく口を開いた。
「別に、なんでもありません」
それが何事もないという顔か。三木ヱ門は内心で呟く。
そのうちに、孫兵はこちらへつつとやってくると、三木ヱ門の隣に膝をついた。一体何なんだと文句を言う間もなく、とすんと胸に孫兵の頭が落ちてきた。
その様がまるで倒れ込むようだったので、三木ヱ門は思わず両腕を出してその身体を受け止める。
「おい、どうしたんだよ……大丈夫か?」
流石に心配になって問うと、こくこくと腕のなかで微かに頷いているようで。どうやら具合が悪いのではないようだ。
「胸の音を聞いてるんです」
「胸の音?」
そういえば、孫兵はぴたりと胸に耳をつけている。どうしていきなりそんなことをはじめたのだろう。そんな三木ヱ門の疑問に答えるように、孫兵は言った。
「これ、心臓の音……嫌いなんです」
「……どうして嫌いなんだよ」
「なんだか気持ち悪くないですか」
「分からない、けど」
「それに、いつかは止まってしまうものだから」
思わず、はっと息を呑む。
――ああ、そうか。それで。
何となく合点がいった。三木ヱ門は、仕方のないやつだと苦笑しながら、その背をぽんとはたいてやる。
「……先輩の音は、嫌いじゃありません」
「おんなじだろ、お前のと」
「違いますよ」
孫兵はふっと顔をあげたかと思うと、くいと三木ヱ門の胸元を引く。そうして見上げるようにしたまま瞳を閉じると、優しく唇を重ねた。
突然何を、と三木ヱ門が目を見開いて慌てていると、悪戯好きな後輩はくすくすと笑う。
「ほら、こうすると急にはやくなる」
とくん、とくん。
言われて余計に意識してしまう鼓動の速さが恥ずかしくて、三木ヱ門は唇を噛んだ。ふいと視線を逸らすと、頬を膨らしてみせる。
「お前だって同じくせに」
「さあ、どうでしょう」
それじゃあ、もういちど試してみましょうか。妖しい笑みを浮かべる後輩の誘いに、受けてたつとばかりに袖を引く。
確かに、悪くはない。三木ヱ門は、ちらと思った。この音が止む前に、幾度も聞いておけばいい。いつか消えてなくなってしまう時がきたとしても、決して忘れられないように。
そうしてやがて触れるのだろう、近づいてくる熱を待ちながら、そっと瞳を閉じた。
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