意義と思惑、ときどき感情

 半分ほど欠けた月が低く空にあがる晩のこと。三木ヱ門はひとつ年下の後輩、伊賀崎孫兵とふたり、それを見上げていた。委員会を終え、自室に帰ろうとしたところ、この後輩が戸に背をつけてまるで待ち構えていたかのようにこちらを向いたのだ。何か用事でもあるのかと訊いてもはっきりとした返答は得られない。まあまあと宥められるままに縁側に腰を下ろすことになっていた。
 平常なら、既にどちらかの口が出ているところだ。それでいつも小競り合いに発展してしまうのだが、それが今日は様相がすこし違っているようであった。並んで縁側に座ってからしばらく、しんとした沈黙が続いている。けれども、決して気まずいようなものではない。一体自分たちは何をしているのだろうか。そうは思いながらも、この場から切り上げようとする気は起こらなかった。そうしてしばらく雲間から顔を出す月を見上げていた三木ヱ門だが、ふと視線を落として、隣の少年をちらりと見やる。向こうも気がついたようで、同じようにこちらを見た。何を考えているのだろう。薄く笑みを浮かべた孫兵の表情に、三木ヱ門は少しばかり眉を寄せる。

「感情とは、不確かなものだとは思いませんか」

 孫兵は、ぽつりと独り言のような問いを投げかけると、また月を見上げてしまう。それはあまりにも唐突で、一般的な感覚から言えば、どんな意図があることやらと頭を抱えたくもなるだろう。一方、三木ヱ門は既にこうした奇怪な後輩の言動には慣れっこだった。何を考えていたことやら、急に思い立ってこうしてふらりとやってきたに違いない。まったく迷惑なことだ、と内心で毒づきながらも、どこかでは何だかんだと言ってこうして自分のもとに落ち着く後輩のことを憎からず思う気持ちもある。「さあ、知らん」とそっけなくも返事をしてやった。それから同じようにその視線を追って、空を見上げる。今宵は少し風があるようで、月はちょうど灰色の雲へと姿を隠してしまったようだ。孫兵もそれを認めたようで、横目でも分かるほどに切なげな顔をする。

「例えば……そうありたいと願うことでそのように感じられてしまう、とか」

 いつものことではあるが、まわりくどい。三木ヱ門は小さく鼻で笑ってやった。要するにこれは、人間の感情というものについて何事かを考えていたようだ。不思議と孫兵の言葉は伝わりにくいようでいて、三木ヱ門にとって何となく同調できるような節があった。どうやら今度もその類のようだ。そうでもなければこんな話に付き合ってやるような義理などない。三木ヱ門は小さく頷いてやる。

「感情なんて、簡単に変わるもんだろ」
「人を形成するのが人格というものであるなら、その一部である感情とはなんなんでしょう」

 また小難しいことを言う。齢十二にして、この少年はやけに夢見がちなところもあれば非常に現実的な面も持ち合わせていた。

「どうして、人間も動物も番を求めるのでしょうか。恋とか、愛とか……その感情はつくりものなんですか」
「……質問する相手を間違えてるな」
「間違えてませんよ、なんにも」

 胸を張って言えたことではないが、三木ヱ門は恋も愛も知らない。好き、なのは石火矢。けれど、それとこれとは何となく違った質のものであることだけは分かっているつもりだ。きっと孫兵も同じなのではないか。三木ヱ門は片手を床につくと身体を少し捻って隣の後輩を見た。先ほどと同じようにこちらを見た孫兵の瞳と視線がぶつかる。それは、深く、暗い色をしている。その心情を窺い知ることはできない。まるでこの後輩が抱える想いの色を表しているようだ。はあ、と三木ヱ門はひとつため息をつく。

「つくりものだとしたら?」
「ぜんぶ、無意味に見えるんです」

 孫兵はまるで答えにならない返事をする。これも常のことで、三木ヱ門は呆れたような表情をしつつも黙って続きを待っていた。そのうちにまた月が顔を出したようで、月明かりがその瞳に小さく反射してみせる。

「生命の誕生は、美しいと思います……けれど、時に分からなくなる」

 生きる意味とか存在理由とか。そのように告げる孫兵は、こちらを見つめているようでいてどこか遠くを見ているようでもあった。ずいぶんと大きなことを考えているものだなあ、このロマンチストは。三木ヱ門は他人事のように考えている。分からない。何となく理解できそうな気もするが、やはり言いたいことはさっぱり分からないのだ。それでも、ひとつだけ確かに言えることがあった。こいつがわざわざ待ち伏せなどして、つらつらと心のうちを述べる理由、そんなところか。だから、こんなときは三木ヱ門も真面目な顔を作って同じような調子で返してやることに決めていた。

「そうかもな……今ここにあるのは全部つくりもので、誰かの思惑が隠れているのかも知れない」

 だとしたら、このおせっかいも誰かの指図なのだろうか。それをさせる自らの感情も……なんて冗談半分に思うけれど、孫兵は違った。大真面目にそれを受け取ってまたいっそう瞳を揺らがせるのだから、三木ヱ門は少しばかり優越感に浸る。要するに、寂しいのだろう。それなのにこの後輩ときたら、己のそんな感情にも気づかずにたいそうなことを思い悩んでいる。それは滑稽でもあるけれど、この無垢さがある意味では美しいとすら感じさせた。

「感情がつくりものだとしたら、どうすればいいんでしょう」

 それは、先ほど三木ヱ門がした問いだ。眉を寄せてこちらを縋るように見る視線。何をそこまで憂うのだろう。結局は想像に過ぎないつまらない作り話で、今までだって同じように巡ってきたのだ。何も問題はないだろう、と三木ヱ門が答えても僅かにかぶりを振るばかりだ。

「困るんです」

 言うと同時に、床に着いたほうの袖が引かれる。三木ヱ門が目を見開いているうちに、ぐいと不意を打ってもう一度強く引かれる袖。それで体勢が崩れた。ぎし、と木の床が軋んだ音を立てる。何をするのかと文句をつけようとした矢先、その唇を塞がれていた。向こうはしっかり瞳を閉じてしまっていて、なんだかんだ思うままにされているのが気に入らない。そこから視線を逸らすようにすれば、月が雲から少し顔を出していて、なんだか突き放す気も失せた。諦めのように瞼を下ろしてやる。しかしそれも一瞬だけの特別だ。掴んだ袖が離れると、開口一番に文句をつける。

「何考えてんだ、この馬鹿」
「分かりませんか」
「分かるか」

 あからさまに不機嫌だと主張する三木ヱ門に詫びることもなく、孫兵はぽつりとその感情を吐露した。

「……"これ"も不確かなつくりものだとしたら」

 はあ、三木ヱ門は本日二回目のため息をつく。だからそれこそどうだと言うのだろう。もともとが無意味なことではないか、こうして触れるのは。正直言って、三木ヱ門にはそういったことは分からない。感覚では理解できるものの、人間とか感情の本質だとか、彼が思考するようなそれは、まったくと言っていいくらいに。わざわざそれを教えてやるほど優しい先輩ではないけれど。
 三木ヱ門はす、と孫兵のほうへ身を寄せた。考え込んでいた後輩は、急な接近に驚いてこちらを見る。構うものか。三木ヱ門は先ほど自分がされたように相手の袖を引くと、しかえしとばかりに相手の熱に触れる。今度は瞼など下ろしてやらなかった。相手の驚いた様をしかと見てやりたかったから。予想通り、その始終相手は目を丸くしてこちらを見ていた。三木ヱ門はおや、と思う。また月のそれが跳ね返ったのか、深い瞳の底は鈍く光を湛えているように見えたから。
 それを堪能する間もなく、今度もあっさりと身を離す。三木ヱ門はしてやったりとばかりの口調で、言ってやった。

「何なら、今夜は泊まってもいいんだぞ。迷子になると困るだろ」

 濡れた口元を拭いながら、相手はまさか、とばかりに笑う。

「……でも、構いませんよ。先輩が寒いと言うのなら」
「誰が言うか、こんな季節に」

 いつものように軽口を言い合いながらも戸口に手をかける。途端、ざああと風が鳴いた。暖かくなりかけた季節にも、風は少し冷たいままかもしれない。三木ヱ門は傍の裾を握った。「素直じゃないんだから」などと生意気を言われてうるさい、と一蹴する。どっちがだ馬鹿。悪態をついてふと振り返って見た空には、月はどこにも見えない。もしもこれが誰かの思惑だと言うのならば、目の前の生意気な後輩のものに違いなかった。


end...





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