雨にうそつき



 しとしとと小雨模様の早朝。空は灰色に染まり、その合間から日の見える気配は少しもなかった。
 早朝とは言えど、いつもならこの学園では今時分に起きて出歩く者は少なくない。しかし、今日のような雨の日は人の歩く気配すらしない。
 そんな中でも、伊賀崎孫兵はいつものように毒虫に餌をやるつもりで生物小屋に向かっていた。小雨がじわりと忍装束を濡らし、肌に張りついていたが、こんな時でも気になるのは虫たちのことであった。毒蛾を始め、虫の中には湿気を苦手とするものも多い。

「……大丈夫かな」

 不安になり、思わずぽつりと呟いた時であった。孫兵は生物小屋へと向かう足を止め、目を見張っていた。何故なら、この早朝には珍しい人物が立っていたからで。しかも、こんな雨の日に。彼もまた、虫ではないが湿気を嫌っていた筈だ。

「珍しいですね、田村先輩……」

 其処にいた人物――田村三木ヱ門は、何をするでもなく、ただ、雨に濡れたまま立ちつくしていた。普段なら石火矢の散歩だとでも言うのだろうが、濡れてしまうからだろう。今は手ぶらである。
 孫兵がそんな風に訝しんでいるのを汲んでか否か、三木ヱ門は曖昧に答える。

「……まあな」

「…何、してるんですか」

 聞いてもいいのだろうか、と思いながらも問いかけてみる。いつもはすぐに突っかかってくるその口も、ずっと閉じられたままだ。自分も相手のことを言えたものじゃないが、本当に珍しい。

「散歩だ」

 今日はユリコは連れてこられないから、と静かに笑う。やはり、どこかおかしい。

「何落ち込んでるんですか」

「落ち込んでなんかない」

「……おかしいですよ、今日の先輩」

 三木ヱ門は答えない。いつもなら、今頃ムキになって言い返してくるのに違いないのに。どこか手応えのなさを感じながら、孫兵はそこを動けずにいた。
 早く虫たちに餌を与えなくては……、早くここを通り過ぎて行ってしまえばいい。そうは思うものの、この先輩を一人で残していくわけにも行かなかった。

 ――泣いている、ような気がしたから。

「先輩」

「…………」

「田村先輩、」

「……なんだよ」

 少し間を置いて、小さな不服そうな声。振り返ったその顔に涙の跡などない。それどころか、多少の悲しみの色も認められない。それならば、どうして進むことが出来ないのか。理由はとうに分かっているはずだった。

「いつもはこんな時間に散歩なんかしてないじゃないですか」

 ぴくり、とその肩が小さく震える。
 敢えて核心をつくような言葉を選んでしまうの、この人だからだろうか。孫兵は少し躊躇したが、このまま捨て置くのも嫌だった。

 少しのあいだ沈黙が続き、細かな雨粒が地に跳ねる音だけが響いている。
 ぽたり。屋根から滴った雫の音に続けて、三木ヱ門は言う。

「嫌いだから」

「……え?」

 貰えないだろうと思っていた返事だが、意外にも答えが返った。しかし、その意味が分からず、思わず呆けた声が出てしまう。

「――朝が」

 それを認めたのか、三木ヱ門は付け加えるように言う。
 今ここにいる理由を知りたかったのに、的外れだとか、嫌いなくせに今はどうしているのかとか、そんなことは聞けなかった。これ以上は踏み込んで欲しくない、と告げてように感じられたから。
 孫兵がしばらく黙り込んでいると、三木ヱ門はくるりとこちらを向いた。

「……なんて、な」

 火薬と日光は相性が悪いだけだと口にして、孫兵の脇を通り過ぎてゆこうとする。そんなこと、聞いてもいないのに。
 聞きたいことはもっと別にあるのに。
 いつものような軽口で問いかけたら、先輩は答えてくれるのかもしれない。それが出来ない自分も、どこかおかしい――

「先輩」

 気がついたら、無意識に引きとめていた。それに自分でも驚いてから、はあ、とひとつ息を吐く。
 三木ヱ門は顔だけを孫兵に向けて応える。

「なんだよ」

 不機嫌そうなそれに、苛立つ。
 どうせ強がりなんでしょう。今更どうして自分の前でそんな顔を見せるのか。本当は震えているのに、近付くなとばかりにこちらを威嚇してみせるのか。
 いや、出来ないのだ。孫兵は思い直した。
 不安定で、脆くも壊れやすいこれは、何かに縋ることを知らない。一度何かに縋れば、弱くなってしまう。自分は一人きりなのだと、孤高の狼のように強く、気高くあろうとしている。本当は、冷たい雨に打たれる子猫でしかないのに。
 それがまたいじらしいと思えた。

「授業で余った火薬があるんです」

 それだけを告げると、三木ヱ門は再び前を向いて、歩き出してしまう。その足元で、ぴちゃりと音が鳴る。孫兵は三木ヱ門の背を追いかけるように、言った。

「放課後ならいつでもあいてますから」

 恐らく聞こえているのだろうに、三木ヱ門は何ら反応を返さない。濡れた髪からぽたぽたと垂れる滴。いつも連れている石火矢のないそのひとの背は、やけに小さく見える。
 それでも、きっとくるだろう。孫兵は確信をもってそう思う。
 本当は、最初からこう言ってやりたかったのだ。ただ、それだけで良かったのだ。自分の幼さを嫌でも実感させられる。自分が甘やかしているつもりで、実は縋っているのはこちらなのだということも自覚していた。

 濡れた拳をきゅっと握りしめる。孫兵はまたひとつ、息を吐き出すと、しとしとと降り続く雨の中を歩み始めた。

 彼の愛する毒虫たちは、お腹を空かせて待っているのに違いなかった。





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